大月みやこ(キングレコード) 大阪新歌舞伎座でデビュー50周年記念コンサート デビュー曲「母恋三味線」から最新曲「いのちの海峡」まで全26曲を歌う [コンサート]
◆デビュー50周年を迎えている大月みやこが、2014年2月24日、大阪・上六の新歌舞伎座で記念コンサートを開いた。デビュー曲の「母恋三味線」から最新曲で昨年の日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞した「いのちの海峡」まで、大月みやこのすべてが分かる全26曲を歌った。「50年も歌えるとは思ってもいませんでした。歌っていられる今が最高の幸せです」と大月。ステージでは時折、涙声で話す場面もあったが「もっと感動してもらえる歌を目指したい」と、まだまだ続く、悲恋の女の世界を歌う歌手人生への意欲を見せていた。
オープニングはデビュー曲「母恋三味線」。
大阪・馬場町の歌謡学校で11年間続けた歌の勉強を経て上京した大月は、1964(昭和39)年、晴れてキングレコードの歌手になり歌手の仲間入りをした。街は東京オリンピックで湧いていたが、歌手人生の前半は決して世間でいう華やかな世界の歌手ではなかった。
この日、3曲目に歌った「通天閣の子守唄」は、一昨年の歌手協会主催のイベントでリクエストに応えて歌ったものの、普段はステージで披露することはない。忘れ去られたような歌だったが、大阪ものの1曲として歌唱リストに加えた。発売した70年当時は「まったく売れなかった」というが、通天閣をさらには大阪を最も良く表した歌とも思われる。
こうした歌を歌っていた大月の歌手人生前半の約15年間は「ただ毎日歌っていられることが楽しくて仕方がなかった」だけの可愛い女の子だった。
「三橋美智也さんや春日八郎さんといった大先輩について全国を歌い巡り、舞台ソデでは先輩の歌をずっと聴いていました。そんな毎日がとても幸せに感じていました」
3年間のビクターへの移籍も経験している。幸運にもカムバックすることができた。が、世間から見ると厳しい下積みの時代であったことには違いない。それでも本人はそんなことは一向に気にも留めず、歌うことだけに喜びを感じていた頃であった。
そうした大月を変えたのは「女の港」 (83年)で、「この辺りから歌をヒットさせて周りからも認めてもらい、大月みやこの名前を覚えてもらいたい、を意識し始めました」という、歌手人生の.転機となった楽曲であった。
コンサートでは、「白い海峡」とともにこの歌も披露した。いずれも大ヒットとなっただけに、今でもカラオケで歌う人も多く、客席からは大きな拍手が送られていた。
大月は4月5日から30日まで新歌舞伎座で、香西かおり、神野美加、田川寿美らとともに芝居「吉野まほろば物語」で長女役を演じる。そうした芝居の世界に足を踏み入れたのも、歌で「女の世界」を描く手段としてで、80年代以降盛んに熱演を振るっている。それでも「私は百パーセント歌手で、たえず前を向いて歌っていたい」と、大月はあくまでも歌手であることをアピールしていた。
ラストは大ヒット曲となった「女の港」とともに、エンディング曲にしたやはり大ヒットした「女の駅」や、「女・・・さすらい」「儚な川」「心ひとすじ」、南こうせつ作曲の旅情演歌「京都ひとり」、50周年記念曲第1弾「女のかがり火」、同第2弾の「いのちの海峡」といった、最近のヒット曲を並べた。
大月のコンサートでは定番とも思える、たくさんの衣装の早変わりは今回も見せてくれた。着物は8着、「大阪で生まれた女」「お嫁サンバ」「パッシングラブ」など7曲歌ったカバーコーナーでのドレス6着の計14着を次々と着替えて、見るものの目を楽しませてくれた。
大月は大阪府八尾市の出身。すでに両親も他界しており、墓参りに帰るのは年に1、2度になったという。それでも今も上六に立つと、必ず思い出すのが歌謡学校へ通っていた10代の歌手の原点でもあった時なのだ。この日も何度も涙声になって、その頃を思い出すシーンが見られた。
記念コンサートによって50年の標を残した大阪・上六(新歌舞伎座)は、大月にとっては生涯忘れられない土地になるだろう。
[大月みやこ オフィシャルサイト]
http://www.otsukimiyako.com/
[大月みやこ キングレコード]
http://www.kingrecords.co.jp/cs/artist/artist.aspx?artist=10066
オープニングはデビュー曲「母恋三味線」。
大阪・馬場町の歌謡学校で11年間続けた歌の勉強を経て上京した大月は、1964(昭和39)年、晴れてキングレコードの歌手になり歌手の仲間入りをした。街は東京オリンピックで湧いていたが、歌手人生の前半は決して世間でいう華やかな世界の歌手ではなかった。
この日、3曲目に歌った「通天閣の子守唄」は、一昨年の歌手協会主催のイベントでリクエストに応えて歌ったものの、普段はステージで披露することはない。忘れ去られたような歌だったが、大阪ものの1曲として歌唱リストに加えた。発売した70年当時は「まったく売れなかった」というが、通天閣をさらには大阪を最も良く表した歌とも思われる。
こうした歌を歌っていた大月の歌手人生前半の約15年間は「ただ毎日歌っていられることが楽しくて仕方がなかった」だけの可愛い女の子だった。
「三橋美智也さんや春日八郎さんといった大先輩について全国を歌い巡り、舞台ソデでは先輩の歌をずっと聴いていました。そんな毎日がとても幸せに感じていました」
3年間のビクターへの移籍も経験している。幸運にもカムバックすることができた。が、世間から見ると厳しい下積みの時代であったことには違いない。それでも本人はそんなことは一向に気にも留めず、歌うことだけに喜びを感じていた頃であった。
そうした大月を変えたのは「女の港」 (83年)で、「この辺りから歌をヒットさせて周りからも認めてもらい、大月みやこの名前を覚えてもらいたい、を意識し始めました」という、歌手人生の.転機となった楽曲であった。
コンサートでは、「白い海峡」とともにこの歌も披露した。いずれも大ヒットとなっただけに、今でもカラオケで歌う人も多く、客席からは大きな拍手が送られていた。
大月は4月5日から30日まで新歌舞伎座で、香西かおり、神野美加、田川寿美らとともに芝居「吉野まほろば物語」で長女役を演じる。そうした芝居の世界に足を踏み入れたのも、歌で「女の世界」を描く手段としてで、80年代以降盛んに熱演を振るっている。それでも「私は百パーセント歌手で、たえず前を向いて歌っていたい」と、大月はあくまでも歌手であることをアピールしていた。
ラストは大ヒット曲となった「女の港」とともに、エンディング曲にしたやはり大ヒットした「女の駅」や、「女・・・さすらい」「儚な川」「心ひとすじ」、南こうせつ作曲の旅情演歌「京都ひとり」、50周年記念曲第1弾「女のかがり火」、同第2弾の「いのちの海峡」といった、最近のヒット曲を並べた。
大月のコンサートでは定番とも思える、たくさんの衣装の早変わりは今回も見せてくれた。着物は8着、「大阪で生まれた女」「お嫁サンバ」「パッシングラブ」など7曲歌ったカバーコーナーでのドレス6着の計14着を次々と着替えて、見るものの目を楽しませてくれた。
大月は大阪府八尾市の出身。すでに両親も他界しており、墓参りに帰るのは年に1、2度になったという。それでも今も上六に立つと、必ず思い出すのが歌謡学校へ通っていた10代の歌手の原点でもあった時なのだ。この日も何度も涙声になって、その頃を思い出すシーンが見られた。
記念コンサートによって50年の標を残した大阪・上六(新歌舞伎座)は、大月にとっては生涯忘れられない土地になるだろう。
[大月みやこ オフィシャルサイト]
http://www.otsukimiyako.com/
[大月みやこ キングレコード]
http://www.kingrecords.co.jp/cs/artist/artist.aspx?artist=10066
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