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北沢麻衣(テイチクエンタテインメント)   杉本眞人を唄うライブ Vol.3 フラミンゴ ジ アルーシャで全13曲を歌う   「歌物語り」 わたしはあきらめない [ライブ]

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◆3月だというのに小雪が舞う寒い月曜日、歌手の北沢麻衣は大阪市浪速区のライブハウス、フラミンゴ ジ アルーシャで「北沢麻衣  杉本眞人を唄うライブ Vol.3」を開いた。2013年5月22日に新曲「御堂筋線で・・・」を出してから3度目の定期ライブだった。最初はリリース直後に心斎橋のライブハウス・ルイード、そして2度目は梅田のumedaAKASOで、それに次ぐもの。今回が最も充実した内容に感じたのは記者だけであったのたろうか。会場は満員の約100人の人たちで埋め尽くされていた。全13曲を歌って、いずれの客も満足し切った表情で会場を後にしていた。





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 2014年3月10日、ライブの1部はギターにパーカッションを交えてのアコースティックなステージ。最新曲の「御堂筋線で・・・」に続いて、20代の時にもらった楽曲だが最近になってようやく歌詞を理解できるようになったという「新宿銀次」、そして新曲のカップリング「道頓堀リバーサイドブルース」「紅い花」「ベサムーチョ」、初めて歌ったという「あなたの背中に」は八代亜紀の歌で、全6曲を歌った。

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 2部は北沢が居酒屋の女主人になったつもりで「小島の女」(西山ひとみ)、ジャズシンガーになって「バーホンをダブルで」(KANA)、謎の未亡人の雰囲気で「冬隣」(ちあきなお)と、それぞれのキャラクターに成り切って杉本眞人作品をカバーした。
 続いて杉本の「銀座のトンビ」を歌い、「御堂筋線で・・・」「道頓堀リバーサイドブルース」のオリジナル曲で締めた。

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 ランチを食べながらのライブは北沢が歌うバラードやブルース調の歌謡曲にピッタリで、観客も満足気。1部2部合わせて13曲、約2時間のライブはあっという間に終わってしまった。今回初めて北沢が歌う杉本作品も数多く含まれたなど、今まで以上に楽しませてくれた内容だった。


― 「北沢麻衣 歌物語り 私はあきらめない」 ―


 歌手北沢麻衣は昨年、メジャー復帰を果たした。
 長い間持ち続けてきた、歌いたいという想いを実現させた彼女は、今、歌の師匠でもある杉本眞人を唄うライブを大阪で続けている。
 きのう難波で行ったもので3回目だ。ステージの彼女は終始、歌うことが楽しくて仕方がない、といった表情である。
 第4回目の次回はどんな内容になるのだろうか。第3回目が終わったばかりなのに、もう今から楽しみである。

 そんな彼女を去年から数度にわたって取材した。昼ご飯を食べながら。OSK時代によく通ったという甘党喫茶のもぐらやでぜんざいをたべながら、話を聞いた。

歌大好き少女がOSKへ


北沢麻衣2.jpg 北沢麻衣は16歳で奈良の高校を中退して、奈良・あやめ池にあった大阪松竹歌劇団・OSK(現・OSK日本歌劇団)の養成学校に入校した。歌を認められて入校したが、2年生からは授業の傍らにステージに上がって給料ももらえたという。
 この頃、学校が終わった後、大阪・難波の甘党喫茶に通っていたが、今の姿からは想像もできない70Kgもあって、ひどく肥えていたという。

 歌好きな両親の影響を受けたのだろう。小学生の頃には歌謡曲が詰まった8トラックテープを聴いていたという。中でもヒデとロザンナ、吉田拓郎、弘田三枝子、ちあきなおみらの歌は「杉本眞人先生にめぐり会うためのステップだったのかもしれません」と北沢は振り返る。



デビュー当時の北沢麻衣

 「小学の時には全日本歌謡選手権に出場したほど、歌には自信がありましたが、歌を認められて入校しました。リンゴダイエットで2年間で20Kgを落としました。踊りも習い、タップダンスは楽しかった。後に歌手デビューしてから佳山明生さんのコンサートでバニーガールの衣装でタップを踏んだことがあります」

 OSKを卒業した年に、父親の口利きでテイチクのディレクターに会い、「恋人よ」を唄ったテープを持って東京へ出た。アルバイトで生計を立てボイストレーニングに励むという1人暮らしを始めた。演歌番組などにも出たが、当時の仲間が今はキングレコードで活躍している青木美保たちであった。

19歳でデビュー


北沢麻衣1.jpg 19歳でポリドールと契約した北沢は「私の胸をかじる人」(作詞・浅木しゅん、作曲・杉本眞人)でデビューする。翌年「銀次—GINJI」(浅木しゅん作詞・杉本眞人作曲)を、1年おいて88年には「かんにんね」(作詞・及川眠子、作曲・堀江童子)を出している、
 順調に歩み始めた。「銀次—GINJI」を再リリースし、「港のセレナーデ」(作詞・星川裕二、作曲・杉本眞人)を出した。小林旭が監督した松竹映画「春来る鬼」にも出演するなど、映画にも2本出演しているほどだ。

 しかし2002年、34歳で郷里の奈良に帰ることを決心してしまった。
 北沢は若い頃、緊張すると顔がはれるほどのじんましんが出るといった慢性病に悩まされていた。芸能人にとっては致命的なものであったが、それはすでに治っていたのだが、「もともと身体が弱かったことなど個人的な事情も重なって、東京での歌手活動をやめることにしました」。


ポリドールから「私の胸をかじる人」でデビュー


 奈良に戻ってからは全日空ホテルでジャズを歌うレギュラーの仕事を得たが、結局は奈良の地元で歌謡教室を引き継ぐことにした。完全に歌手から身を引いた形だった。
 でもやはり大好きな歌を歌うことで、たくさんの人の心を響かせたい、そんな想いは歳を経るとともに高まってきた。

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デビュー曲の「私の胸をかじる人」(左)など、当時出した北沢オリジナルのレコード

 抑えきれない気持ちを形にしたのが、11年10月、新曲「夜を越えて」(作詞・Masumi X、作曲・中西大介、編曲・竜崎孝路)をウェブクウからのリリースしたことだった。デビュー曲の「私の胸をかじる人」から数えて6枚目のCDである。かつて同じポリドールに在籍していた、現ウェブクウ社長の山口光昭氏との縁もあって全国発売が決まった。

 その新曲のお披露目コンサートを奈良県大和郡山市の大和郡山城ホールで開き、集まった600人をはじめ、広く業界へ向けて歌手北沢麻衣の再出発をアピールした。

北沢の背中を押したチェウニの「港のセレナーデ」


 去年、北沢はデビュー当時から交流のある杉本眞人が滞在している名古屋を訪ねている。
杉本の作曲による作品で再びメジャーなステージに立つ準備は進められていたが、打合せと礼を述べるためであった。
 北沢に杉本は言っている。
 「もう辞めるなよ。売れる売れないは時の運で、じっくりやっていけ。急にはこないかもしれないが、歌い続けろ」

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 ポリドール時代からのディレクターで、今はテイチクエンタテインメントでディレクターを務める松下章一は「簡単にはいかないかもしれないよ」と、再デビューが決して生易しいものではないことを指摘した。

 北沢を再びメジャーへと突き動かしたのは、12年にテイチクエンタテインメントのチェウニが北沢の「港のセレナーデ」をカバーしたことであった。冷静を装っていた北沢だが、自分の歌を歌われてしまったことで、何とも言えない寂しさが襲ってきたのだ。

 「デビュー当初から13曲もの歌を作ってもらったけれど、そのうち11曲は杉本先生というほど親しくさせてもらっていた先生に、もっと早く図々しく復帰したい、と言っていればよかったかもしれません。何度も考えたことはありましたが、結局、オリジナル曲をほかの人に歌われるまで動けなかったんです」

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 復帰第1弾「御堂筋線で・・・」は、カップリングに「道頓堀リバーサイドブルース」を収録している。歌手への1歩を歩み出したOSKのステージがあった道頓堀、その場所が舞台である。ステップを踏みながら、♪ ぶんぶんぶんぶん ~ と歌っているそれは、まさに北沢の再スタートへの力強い決意を表すようでもある。
 コンサートではアンコールに応えてkラストソングに、この「道頓堀リバーサイドブルース」を歌った。


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[北沢麻衣 オフィシャルサイト]
http://uta-utai.com/
[北沢麻衣 テイチクエンタテインメント]
http://www.teichiku.co.jp/teichiku/artist/kitazawa/




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