SSブログ

山本謙司(徳間ジャパンコミュニケーションズ)   津軽弁で歌う土の匂いがする「津軽のブルース」  民謡歌手50周年の節目 世界へ響く津軽民謡 [インタビュー]

山本謙司2.jpg◆やっぱりライブはいいねぇ~!東大阪市内での新曲「津軽のブルース」の歌唱キャンペーンを終えた山本謙司は、そう話した。東北の人たちの息づかいが聞こえて来そうな民謡から、「東北にはブルースはない」と言い切りながら歌う新曲など、彼の歌は生のステージならではの、どれもが心に響いてくる。すべてを聴き終えて、楽しさとともに満足感が満ちていた。


山本謙司・津軽のブルース.jpg









 山本謙司は1943年3月28日、青森県西津軽郡森田村(現・同県津軽市)生まれの民謡歌手で演歌歌手である。今年3月で74歳になる。作詞家の志賀大介が書いた新曲「津軽のブルース」の、♪ こごさ流されて ~ の歌詞も、ありきたりの演歌てはなく、津軽弁で書くことによって津軽の土から発する歌へと変化させる。
 「恐らく女の歳は40は超えているのだろう。夢をなくした女の話を、ひとり聞いてやる男。地酒と三味の音色が、更けゆく夜を一層切なく哀しくする」
 山本は津軽弁で歌って、そう説明してくれた。

 カップリングには津軽民謡「木造の田植唄」「人生これから音頭」の2曲を入れる。「木造 ー 」は、津軽の田畑や野山の四季折々の自然を歌う。ライブでは東北の人の生活や風土を説明しながら歌う。
山本は今までに、青森にあるという民謡140数曲を歌ってきたが、最後の1曲を残すのみとなっていた。それが「木造 ー 」なのである。収録にあたって、三味線の音色にシンセサイザーの音を被せてことで、新鮮さを感じさせている。

山本謙司4.jpg

 民謡は単に歌を上手く聴かすだけではなく、歌が生まれた時代、その背景から土地の風土や人々の生活までを知って歌うことで、表現は変化する。「歌は時代を反映しているわけで、それは歌い方にも違いが出てきます。たとえば天保の飢饉の時代の歌であれば、歌に生活の苦しさがにじみ出る」。

 ライブではそんな背景も語ってくれる。
 津軽に伝わる民謡に実話に基づいた「弥三郎節」がある。山本の実家から300メートルと離れていない所が、その歌の舞台となったというが、9人もの嫁を次々といびり出した、弥三郎の実母である姑が歌われている。
 そうして歌が誕生した経緯や土地の様子を話しながら歌うのは、それを聴く人たちを民謡へ引き込ませるのには十分すぎるようである。

■歌が支えてくれた


山本謙司.jpg 山本は民謡歌手として23歳でデビューしている。中学を卒業した1958(昭和33)年に集団就職で大阪・西中島南方のクリーニング店に住み込んだ。仕事は自転車に乗って得意先への配達だった。店は市内北部の淀川区にあったが、配達先は南部の平野区あたりまで行くのである。今、地下鉄で移動するのでさえ時間を要する。それを自転車で行くのであるからなおのこと、かなりの道のりである。しかも毎日、朝6時から夜11時まで働いた。

 そんなきつい仕事の支えになったのは、民謡日本一になるという夢だった。仕事を終えてから毎晩、淀川の河原で津軽民謡を歌って練習を繰り返した。当時ラジオからは大好きな三橋美智也の「哀愁列車」「おさらば東京」が流れていたが、もちろんそれらも愛唱歌であった。
 持ち前の歌の上手さもあってか、出場する民謡コンクールではいつの間にか向かうところ敵なし、と言われるほどになっていた。

 決して楽な仕事ではなかったが「歌があったから辛抱出来ました。自転車に乗りながらも歌っていました」と山本は目を細める。

 東京オリンピックが開かれた1964(昭和39)年に東京へ出ている。もちろん歌手になりたいといった想いからである。「店の親父さんに東京へ行くと告げると、5年以内にレコードを出せなかったら、また店へ戻ってこい、と言ってくれたんです。うれしかったですね」

 しかし東京でも生活は変わらなかった。違ったのは、歌の勉強をする時間が取りやすかった牛乳配達に仕事を変えたことだった。その甲斐あって、1965(昭和40)年にはNHKのオーディションやフジテレビの民謡名人戦で優勝している。1968(同43)年には念願の民謡の全国大会で優勝を勝ち取った。

山本謙司3.jpg

 上京後しばらくして、作曲家の服部良一の門をたたいている。そこで服部から「君は歌謡曲は無理だよ。民謡歌手で頑張った方が良い」と指摘された。民謡でひと旗上げるのは夢だったが、歌謡曲での名を成したいと思っていただけに、その言葉はショックであった。世の中は橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦といった歌謡界の御三家が活躍し始めていた頃である。
 「仕方がないですよね。この顔とこの声ですからね。3人にはかないっこないです。それから民謡に絞りました」

 1969(同44)年、東芝音楽工業から「謙良節・ホーハイ節」でデビューしたのが23歳の時だった。
 そして28歳で結婚したが、デビューしたからといって生活は決して楽ではなかった。「仕事のオファーがなかった」のだ。ガス工事の穴掘り、鉄くず屋など様々な仕事をこなして家族を支えた。

■海外で人気を集める津軽民謡

 2004(平成16)年に徳間ジャパンコミュニケーションズから出した「津軽慕情」は、津軽弁の演歌として、たくさんの人たちに歌われる人気曲になった。
 ここ数年、海外でも歌うことが増えている。去年はドイツ・ベルリンでも歌った。イベント「カルナヴァール・デア・クルトゥーレン」で、着物姿で津軽民謡を歌うと言葉は違っても通じるものがあるようで、聴く人たちに感動を伝えていたという。民謡を歌っていて良かった、と山本を思わせたひと時であった。




[山本謙司 オフィシャルサイト]
https://yamamotokenji.jp/
[山本謙司 徳間ジャパンコミュニケーションズ]
http://www.tkma.co.jp/enka_top/yamamoto.html








nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:音楽

nice! 7

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。