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演歌師・田浦高志  浪花最後の流しが「流しうたライブ」  演歌オンリーの全27曲  大阪・谷六で [ライブ]

田浦高志2.jpg◆若い客たちで賑わう派手な看板を掲げた串カツ屋が軒を並べる大阪・新世界。村田英雄が歌った「王将」の歌にも登場する通天閣の町としても知られている。大衆演劇や演歌ショーの小屋もあるなど、町全体のあちこちからは演歌な匂いがぷんぷんと漂ってくる。ここから隣町の飛田、さらに天王寺、あべのへと歓楽街をギターを抱えて歩いていたのが、浪花最後の流しと言われた演歌師・田浦高志(57歳)である。その田浦のライブが大阪・谷六の書斎かふぇ じょうじあんである、と誘われて出かけた。田浦は「流しは歌が上手いだけではいけない」と、エンターティナーの真髄を存分に見せてくれた。







 田浦高志というこの男、とにかく客を楽しませることに徹している。これぞライブとでもいうのか、3時間になろうかという持ち時間、誰ひとりとして飽きさせることなく、途中少しの休憩を挟んだものの、ギターを弾きながらマイクも使わずに、1人で27曲も歌ってしゃべったのである。
 彼が歌声は離れた人にもちゃんと届くし、かと言って近くにいる人には決してうるさくはない。狭い居酒屋で身に着けた流しのコツである。

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 浪曲師の父と曲師の母を持つ田浦が、流しの世界に飛び込んだのは16歳の時だった。最初は先輩について歩くのだが、歌うのは毎日同じ3曲ばかりだったという。この日のライブのオープニングは、その修業時代に歌っていた「逢いたかったぜ」「おまえとふたり」「男の涙」だった。

 「子供の頃から浪花節を唸っていたし、舞台に上がってもマイクは使いませんでした。客席から投げ銭が飛んでくるんですが、歌い終わってそれを拾うのが恥ずかしくて嫌で仕方なかった」(田浦)

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田浦高志のオリジナル曲「北で逢った女」(1999年)

 「歌わなくても稼いでいた流しもいた」(田浦)ように、入った店では客とのコミュニケーションが大切だった。「喜ばせるためには、客の顔を見てどんな歌が好きかな、と想像して歌うんです。そうすると、よう知ってるなぁ~と言って祝儀を頂けます」(同)
 中でも人気があったのは北島三郎の歌で、「風雪ながれ旅」「歩」「加賀の女」「終着駅は始発駅」は定番だった。

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 大阪・ミナミの歓楽街である飛田では、職人がエリート層だったし、ニッカポッカ姿の客もたくさんいた。そんな彼らからは「484のブルース」「河内遊侠伝」「釜ヶ崎人情」「恋あざみ」などなども好まれたし、田端義夫の「別れ船」「ふるさとの灯台」を歌いながら涙を流していた。店のママからは「他人船」も人気だったという。

 そんな歌に酔いしれた客は祝儀を渡してくれる。手で受け取るのは流しにとっては失礼極まりないことだ、と田浦は教えられた。そんな時、ギターの胴体に入れてもらうのだが「中には百円玉をいっぱいほり込む客もいて、事務所に帰ってから取り出すのが大変でした」といったエピソードも。

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ゲスト出演したちんどん通信社の林幸治郎

 流しの値段は3曲で1000円が相場とも言われていたが、決して決まっていたわけではない。田浦は「次の店はないと思って、入った店でいかに客を楽しませ、気に入られ稼ぐかが勝負であった」と話す。そんな真剣勝負で毎日歌ってきた彼は、今はもう流しはやらないという。「だってAKB48なんてリクエストされても歌えないしね」と笑わせるのであった。


[田浦高志 オフィシャルサイト]
https://www.facebook.com/people/%E7%94%B0%E6%B5%A6%E9%AB%98%E5%BF%97/100015383438293






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