「渡辺要物語 歌は心の港」 第2回 「要鮨」開店 [インタビュー]
◆歌手渡辺要は、天皇・皇后陛下に自ら握った寿司を献上したことがある寿司職人であったことでも知られている。その彼が今年も、マグロを解体して寿司を握って見せる歌謡ショーを、大阪・道頓堀の寿司店でやってのけた。彼と寿司との関わりのきっかけは前回に触れているが、職人時代を過ごした高松では、四国でも有数の寿司店にまで築き上げたほどである。しかしそこに至るまでには、驚くような職人魂と商売人根性があった。
1年ぶりに寿司店の板場に立った渡辺要(2018.1.26 まぐろ解体歌謡ショーで)
高松市屈指の繁華街、丸亀町商店街の近くに、渡辺は母親に50万円を借り、蓄えていた15万円と合わせて資金65万円で、カウンターだけの小さな寿司店「要鮨」をスタートさせた。毎月の家賃は2万7000円であった。
ビルの1階のそこは、カウンターと壁があるだけだった。ネタケースは寿司職人として修業を積んだ、大阪の寿司店の親方から独立祝いにもらっていたので、それを置いたが、厨房機など寿司店に必要なものは何もなかった。そこでまず2000円を出してタイルの流し台を買った。ビール箱を重ねて、その上に置き、ホースで排水設備を整えた。
1年間は店の奥に3畳間ほどの広さの部屋を作って、後に6畳1間のアパートを借りるまでは、そこで夫婦2人が生活した。家財道具と言えば整理箪笥と卓袱台、布団。そんなものであった。
渡辺が「彼女も苦労してくれましたよ」と懐かしむ、その女性は大阪で修業中に親しくなった、東京からやって来た客のひとりだった。気の強い彼女とは、結婚してからも喧嘩が絶えなかったのであるが、要鮨創業時から一緒に苦労を共にしたのは事実であった。
彼女と知り合った大阪での修行時代は、絶えず金のない状態が続いていたから、デートはもっぱら公園や喫茶店、少しゆとりが出来ると映画を見に行っていた。そんな2人が並んで歩くと、162センチの渡辺の身長は決して高くは見えなかった。店ではいつも高下駄を履いていたから、カウンター越しに見える渡辺は結構高く見えていた。
しかしデートでは高下駄を履く訳にはいかないから、同じ背の高さの彼女から見る渡辺は小さく見えた。ある時、渡辺は「意外と小さいのね」と言われるのだが、この日から、彼女には頭が上がらなくなったのかもしれない。
■隣も寿司屋
店も何とか寿司店らしくなった。いよいよ開店となったのだが、同じ香川県内にある実家の近所の人たちや親戚の人たちが、祝いに来てくれた。元々、客も知り合いも少ない中でのオープンであった。親しい人たちが一巡すると、オープンの賑わいは早々に途絶えてしまった。案内状は100枚ほど作ったが、90枚も残った。
予想はしていたものの、決して順風満帆ではなかった。
しかも隣は同じ寿司店だったのだ。数日早かったが、ほぼ同じ時期の開店であった。その店はオープンしてすぐに繁盛していた。高松の家具屋の息子兄弟2人で経営していたが、父親の家具屋は同じ市内のキャバレーに家具を納めており、その支配人とも親しく、店はいつもキャバレーの客でいっぱいであった。
キャバレーには歌手が出演していたから、彼らは客と共にやって来るし、歌手が来たというので、店の外は野次馬が群がる。とにかく数日早くオープンしたにもかかわらず、隣の店は連日大賑わいであったのだ。
その店とはブロック壁で仕切られているだけ。しかもトイレは共同であった。これが渡辺に幸運をもたらした。
1日に2、3人は、店を間違えて渡辺の店に入ってきた。店が違うことが分かると、スッと出て行くのだが、中には義理堅くカウンターに腰掛けて注文する人もいた。ある時、隣の店と親しいキャバレーの支配人が、やはり間違って入ってきた。お互いにバツが悪いが、間違ったことには触れずに、渡辺は注文を尋いて、酒を出した。
その日は支配人から代金を受け取らずに、その代わりに名刺をもらい、後日、請求書を送ることにした。
その頃、渡辺は開店を知らせるために、名刺を1枚でも欲しかったのである。
翌日、手土産を持って支配人を訪ねて「10回に1回でもいいので、また間違えて来てください」と微笑むと、わざわざ来てくれたことを喜んでくれた支配人は、その後も律儀に10回に1回は「要鮨」にやって来て、いつのまにか常連客になっていた。
「これだ、と思いましたね。それから名刺をもらうたびに、1軒1軒お礼を言って歩きましたね」
続く
「渡辺要物語 歌は心の港」 第1回 大阪・法善寺横丁の寿司屋で修業
http://music-news-jp.blog.so-net.ne.jp/2017-11-28
「渡辺要物語 歌は心の港」 プロローグ
http://music-news-jp.blog.so-net.ne.jp/2017-11-23
1年ぶりに寿司店の板場に立った渡辺要(2018.1.26 まぐろ解体歌謡ショーで)
高松市屈指の繁華街、丸亀町商店街の近くに、渡辺は母親に50万円を借り、蓄えていた15万円と合わせて資金65万円で、カウンターだけの小さな寿司店「要鮨」をスタートさせた。毎月の家賃は2万7000円であった。
ビルの1階のそこは、カウンターと壁があるだけだった。ネタケースは寿司職人として修業を積んだ、大阪の寿司店の親方から独立祝いにもらっていたので、それを置いたが、厨房機など寿司店に必要なものは何もなかった。そこでまず2000円を出してタイルの流し台を買った。ビール箱を重ねて、その上に置き、ホースで排水設備を整えた。
1年間は店の奥に3畳間ほどの広さの部屋を作って、後に6畳1間のアパートを借りるまでは、そこで夫婦2人が生活した。家財道具と言えば整理箪笥と卓袱台、布団。そんなものであった。
渡辺が「彼女も苦労してくれましたよ」と懐かしむ、その女性は大阪で修業中に親しくなった、東京からやって来た客のひとりだった。気の強い彼女とは、結婚してからも喧嘩が絶えなかったのであるが、要鮨創業時から一緒に苦労を共にしたのは事実であった。
彼女と知り合った大阪での修行時代は、絶えず金のない状態が続いていたから、デートはもっぱら公園や喫茶店、少しゆとりが出来ると映画を見に行っていた。そんな2人が並んで歩くと、162センチの渡辺の身長は決して高くは見えなかった。店ではいつも高下駄を履いていたから、カウンター越しに見える渡辺は結構高く見えていた。
しかしデートでは高下駄を履く訳にはいかないから、同じ背の高さの彼女から見る渡辺は小さく見えた。ある時、渡辺は「意外と小さいのね」と言われるのだが、この日から、彼女には頭が上がらなくなったのかもしれない。
■隣も寿司屋
店も何とか寿司店らしくなった。いよいよ開店となったのだが、同じ香川県内にある実家の近所の人たちや親戚の人たちが、祝いに来てくれた。元々、客も知り合いも少ない中でのオープンであった。親しい人たちが一巡すると、オープンの賑わいは早々に途絶えてしまった。案内状は100枚ほど作ったが、90枚も残った。
予想はしていたものの、決して順風満帆ではなかった。
しかも隣は同じ寿司店だったのだ。数日早かったが、ほぼ同じ時期の開店であった。その店はオープンしてすぐに繁盛していた。高松の家具屋の息子兄弟2人で経営していたが、父親の家具屋は同じ市内のキャバレーに家具を納めており、その支配人とも親しく、店はいつもキャバレーの客でいっぱいであった。
キャバレーには歌手が出演していたから、彼らは客と共にやって来るし、歌手が来たというので、店の外は野次馬が群がる。とにかく数日早くオープンしたにもかかわらず、隣の店は連日大賑わいであったのだ。
【写真】魚をさばく包丁を手にする渡辺要
その店とはブロック壁で仕切られているだけ。しかもトイレは共同であった。これが渡辺に幸運をもたらした。
1日に2、3人は、店を間違えて渡辺の店に入ってきた。店が違うことが分かると、スッと出て行くのだが、中には義理堅くカウンターに腰掛けて注文する人もいた。ある時、隣の店と親しいキャバレーの支配人が、やはり間違って入ってきた。お互いにバツが悪いが、間違ったことには触れずに、渡辺は注文を尋いて、酒を出した。
その日は支配人から代金を受け取らずに、その代わりに名刺をもらい、後日、請求書を送ることにした。
その頃、渡辺は開店を知らせるために、名刺を1枚でも欲しかったのである。
翌日、手土産を持って支配人を訪ねて「10回に1回でもいいので、また間違えて来てください」と微笑むと、わざわざ来てくれたことを喜んでくれた支配人は、その後も律儀に10回に1回は「要鮨」にやって来て、いつのまにか常連客になっていた。
「これだ、と思いましたね。それから名刺をもらうたびに、1軒1軒お礼を言って歩きましたね」
続く
「渡辺要物語 歌は心の港」 第1回 大阪・法善寺横丁の寿司屋で修業
http://music-news-jp.blog.so-net.ne.jp/2017-11-28
「渡辺要物語 歌は心の港」 プロローグ
http://music-news-jp.blog.so-net.ne.jp/2017-11-23