「渡辺要物語 歌は心の港」第5回 四国1番の鮨店になる [インタビュー]
◆日本クラウンの歌手、渡辺要のインタビュー「渡辺要物語 歌は心の港」も不定期ながら、すでに5回目となる。今回も鮨の話が続くのだが、渡辺はインタビューで「また握ってみたくなってきたな」と笑みを漏らすほど鮨への思い入れは今なお強い。彼と鮨はやはり切っても切れない関係であり、捨て難い魅力があるのに違いない。
渡辺が高級鮨店「要鮨」をはじめ7店舗の鮨店を構えていた香川県高松市は、企業の多くが支店を置く四国の中核都市として知られている。その支店が街の経済を活気づける支店経済都市とも呼ばれている。支店の人たち、とりわけ接待交際費を使える社員が、すでに高松で1番の高級店になっていた「要鮨」を利用していたのである。
テレビなどマスコミに登場することも多くなった渡辺要(高松港で)
坪100万円もかけてライオン通りにあった本店の店舗力を高めたのも、そのためであった。最高の贅を尽くした本店のほかには、均一価格で鮨を提供する今の回転寿司の走りのような店や、飲食店街のど真ん中で10席ほどの小さな深夜鮨も出店していた。そこは夜12時頃から朝まで営業し、本店で残ったネタを使うので仕入れはほとんどゼロだった。檜の真っ白い店内は、やはり高級感をかもし出していた。
「本店のネームバリューがあるのと、その頃はほかに開いている鮨店がなかったので、クラブやスナックのママなど客はたくさん来てくれましたね」
アイデアたっぷりの経営者ぶりを見せていた渡辺がオープンした均一価格の店は、天井を鏡張りにしたパブ鮨だった。行列ができるほどの人気店で、調理師は4、5人でカウンターだけの店だった。
鮨はすべて70円均一価格だった。オープン記念の3日間限定で鮑、トロ、雲丹をはじめ、何を食べても500円均一で、1時間食べ放題の企画を打ち出すと、初日は障害者学校の生徒を招待したが、2日目からは体格の良い一般学生など若い子が並んで、またまた街の話題をさらった。
■天皇・皇后陛下の鮨を献上
要鮨の目標を地域1番店の香川県1としていた渡辺は、その後、従業員数、店舗数、売上高のすべてでトップを確保し、名実ともに四国1番店となっている。売上は最高2億8千万円を記録している。
そんな彼の名前をさらに高めたのが、天皇・皇后陛下が皇太子時代に四国・高松で行われたに植樹祭の際に宿泊したホテルでの食事に、鮨を献上したことであった。その時に握ったのは県魚のハマチのほか要鮨名物の穴子、そしてコノシロ、鯛、平目などだったという。
両陛下は後のインタビューで高松で印象に残ったことを尋ねられて「要鮨が美味しかった」と答えられたといい、それを耳にした新聞などの取材もあって、要鮨は一躍有名になる。「高松に皇室関係者が来られると、要鮨を指名して頂きました」と渡辺は回想している。
■アイディア弁当
7つあった要鮨の店舗のうち1店舗は仕出しセンターであった。瀬戸大橋が1988(昭和63)年に開通して、香川県坂出市の瀬戸内海に浮かぶ与島に京阪電鉄が経営する商業施設「フィッシャーマンズ・ワーフ」がオープンした。
それに先駆けて、ここへ瀬戸内海の味と香りが詰まった弁当を供給する事業者を募集するコンペに応募すことになった。応募総数1000社余という競争であったが、それがなんと優勝してしまったのである。
出品したのは、竹の皮で包んだ鯖の棒鮨「讃岐ぶおとこ」や瀬戸内の魚をふんだんに使ったちらし寿司「瀬戸ちらし」さらには薄いピンク色した蒲鉾で巻いた巻き寿司をパックにした「瀬戸の花嫁」幕の内は瀬戸内の島々の美しさを表現した「多島美弁当」などの弁当であった。
「遊び感覚で応募したんです。毎日弁当500食も作る設備も人もなかったので、急きょ別会社を作って、選挙事務所に使っていた広さ50坪のフレハブを借りて調理台や大型冷蔵庫も入れ、パートも募集しました」
求人の条件は午前3時から10時までの勤務時間で、当時の平均時給を300円も上回る800円だったが、広告を出したその日のうちに見る見るうちに人が集まった。
今も年に1度は鮨店の板場に立って歌謡ショーを企画している
順調にスタートして1日500食を作って与島へ運んでいた弁当も、徐々に減り始め、終いには日毎発注に変わり、1日30食、20食といった具合で、採算が合わなくなってしまった。そんな時、島内のホテルに供給した弁当が原因で食中毒が発生する事故が起こった。それを機会に、別会社にしていた仕出しセンターは廃業することになる。
京阪電鉄が「日本のハワイにする」と言って意気込んだ与島のフィッシャーマンズ・ワーフも、1990年代に入ると年々観光客は減り、神戸淡路鳴門自動車道やしまなみ海道がオープンすると更に減少し、ついに2003年には京阪電鉄は撤退してしまった。
食中毒騒動は要鮨には影響はなく、四国No. 1の地位は不動だったが、渡辺は少しづつ歌に魅力を感じるようになっていく。
そして渡辺はある日、惜しげも無く「要鮨」を廃めて歌手に専念する内容のチラシを新聞に入れた。歌手の道を選んだきっかけは次回に譲るが、歌手デビュー後にも「世界の金持ちが集まるというシンガポールで、月に1回で良いから演歌を歌いながら鮨を握ってみたらどうかーといったオファーがありました」というほど、彼が鮨職人の道を捨てることに納得いかない人たちは、1人や2人ではなかったようである。
続く
「渡辺要物語 歌は心の港」 第4回 名物穴子鮨
http://music-news-jp.blog.so-net.ne.jp/2018-02-04
「渡辺要物語 歌は心の港」 第3回 1番店へ
http://music-news-jp.blog.so-net.ne.jp/2018-02-03
「渡辺要物語 歌は心の港」 第2回 「要鮨」開店
http://music-news-jp.blog.so-net.ne.jp/2018-02-02
「渡辺要物語 歌は心の港」 第1回 大阪・法善寺横丁の寿司屋で修業
http://music-news-jp.blog.so-net.ne.jp/2017-11-28
「渡辺要物語 歌は心の港」 プロローグ
http://music-news-jp.blog.so-net.ne.jp/2017-11-23
渡辺が高級鮨店「要鮨」をはじめ7店舗の鮨店を構えていた香川県高松市は、企業の多くが支店を置く四国の中核都市として知られている。その支店が街の経済を活気づける支店経済都市とも呼ばれている。支店の人たち、とりわけ接待交際費を使える社員が、すでに高松で1番の高級店になっていた「要鮨」を利用していたのである。
テレビなどマスコミに登場することも多くなった渡辺要(高松港で)
坪100万円もかけてライオン通りにあった本店の店舗力を高めたのも、そのためであった。最高の贅を尽くした本店のほかには、均一価格で鮨を提供する今の回転寿司の走りのような店や、飲食店街のど真ん中で10席ほどの小さな深夜鮨も出店していた。そこは夜12時頃から朝まで営業し、本店で残ったネタを使うので仕入れはほとんどゼロだった。檜の真っ白い店内は、やはり高級感をかもし出していた。
「本店のネームバリューがあるのと、その頃はほかに開いている鮨店がなかったので、クラブやスナックのママなど客はたくさん来てくれましたね」
アイデアたっぷりの経営者ぶりを見せていた渡辺がオープンした均一価格の店は、天井を鏡張りにしたパブ鮨だった。行列ができるほどの人気店で、調理師は4、5人でカウンターだけの店だった。
鮨はすべて70円均一価格だった。オープン記念の3日間限定で鮑、トロ、雲丹をはじめ、何を食べても500円均一で、1時間食べ放題の企画を打ち出すと、初日は障害者学校の生徒を招待したが、2日目からは体格の良い一般学生など若い子が並んで、またまた街の話題をさらった。
■天皇・皇后陛下の鮨を献上
要鮨の目標を地域1番店の香川県1としていた渡辺は、その後、従業員数、店舗数、売上高のすべてでトップを確保し、名実ともに四国1番店となっている。売上は最高2億8千万円を記録している。
そんな彼の名前をさらに高めたのが、天皇・皇后陛下が皇太子時代に四国・高松で行われたに植樹祭の際に宿泊したホテルでの食事に、鮨を献上したことであった。その時に握ったのは県魚のハマチのほか要鮨名物の穴子、そしてコノシロ、鯛、平目などだったという。
両陛下は後のインタビューで高松で印象に残ったことを尋ねられて「要鮨が美味しかった」と答えられたといい、それを耳にした新聞などの取材もあって、要鮨は一躍有名になる。「高松に皇室関係者が来られると、要鮨を指名して頂きました」と渡辺は回想している。
■アイディア弁当
7つあった要鮨の店舗のうち1店舗は仕出しセンターであった。瀬戸大橋が1988(昭和63)年に開通して、香川県坂出市の瀬戸内海に浮かぶ与島に京阪電鉄が経営する商業施設「フィッシャーマンズ・ワーフ」がオープンした。
それに先駆けて、ここへ瀬戸内海の味と香りが詰まった弁当を供給する事業者を募集するコンペに応募すことになった。応募総数1000社余という競争であったが、それがなんと優勝してしまったのである。
出品したのは、竹の皮で包んだ鯖の棒鮨「讃岐ぶおとこ」や瀬戸内の魚をふんだんに使ったちらし寿司「瀬戸ちらし」さらには薄いピンク色した蒲鉾で巻いた巻き寿司をパックにした「瀬戸の花嫁」幕の内は瀬戸内の島々の美しさを表現した「多島美弁当」などの弁当であった。
「遊び感覚で応募したんです。毎日弁当500食も作る設備も人もなかったので、急きょ別会社を作って、選挙事務所に使っていた広さ50坪のフレハブを借りて調理台や大型冷蔵庫も入れ、パートも募集しました」
求人の条件は午前3時から10時までの勤務時間で、当時の平均時給を300円も上回る800円だったが、広告を出したその日のうちに見る見るうちに人が集まった。
今も年に1度は鮨店の板場に立って歌謡ショーを企画している
順調にスタートして1日500食を作って与島へ運んでいた弁当も、徐々に減り始め、終いには日毎発注に変わり、1日30食、20食といった具合で、採算が合わなくなってしまった。そんな時、島内のホテルに供給した弁当が原因で食中毒が発生する事故が起こった。それを機会に、別会社にしていた仕出しセンターは廃業することになる。
京阪電鉄が「日本のハワイにする」と言って意気込んだ与島のフィッシャーマンズ・ワーフも、1990年代に入ると年々観光客は減り、神戸淡路鳴門自動車道やしまなみ海道がオープンすると更に減少し、ついに2003年には京阪電鉄は撤退してしまった。
食中毒騒動は要鮨には影響はなく、四国No. 1の地位は不動だったが、渡辺は少しづつ歌に魅力を感じるようになっていく。
そして渡辺はある日、惜しげも無く「要鮨」を廃めて歌手に専念する内容のチラシを新聞に入れた。歌手の道を選んだきっかけは次回に譲るが、歌手デビュー後にも「世界の金持ちが集まるというシンガポールで、月に1回で良いから演歌を歌いながら鮨を握ってみたらどうかーといったオファーがありました」というほど、彼が鮨職人の道を捨てることに納得いかない人たちは、1人や2人ではなかったようである。
続く
「渡辺要物語 歌は心の港」 第4回 名物穴子鮨
http://music-news-jp.blog.so-net.ne.jp/2018-02-04
「渡辺要物語 歌は心の港」 第3回 1番店へ
http://music-news-jp.blog.so-net.ne.jp/2018-02-03
「渡辺要物語 歌は心の港」 第2回 「要鮨」開店
http://music-news-jp.blog.so-net.ne.jp/2018-02-02
「渡辺要物語 歌は心の港」 第1回 大阪・法善寺横丁の寿司屋で修業
http://music-news-jp.blog.so-net.ne.jp/2017-11-28
「渡辺要物語 歌は心の港」 プロローグ
http://music-news-jp.blog.so-net.ne.jp/2017-11-23