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「渡辺要物語 歌は心の港」第10回   ミイラ取りがミイラに [半生記]

渡辺要.jpg◆1978(昭和53)年、高松の街にもミニスカートで踊って歌うデュオ、ピンクレディーの「UFO」が賑やかに響き渡っていた。レコード店の前では、子供たちがその振付を真似する光景も見られた。当時のオーディション番組「スター誕生」出演をきっかけに1976年にデビューした彼女たちは、デビュー・シングル「ペッパー警部」の売上が60万枚を記録。その年の第18回日本レコード大賞新人賞を獲得していた。

 「UFO」は彼女たちの第6弾シングルとして1977年12月に発売され、155万枚を超す大ヒットとなった。78年末には第20回日本レコード大賞を受賞するほどであった。







渡辺要

 同じ年、瀬戸内の直島という小さな島の三菱金属鉱業直島精錬所に勤める、当時46歳の村木賢吉が歌っていた「おやじの海」もまた、静かなブームを巻き起こしていた。ピンクレディーのような派手さはないが、翌79年には140万枚の大ヒットとなっている。この歌は同じ会社に勤めながら作詞作曲活動をしていた佐義達夫が書いて、72年に村木に歌わせたものだった。最初はわずか500枚の自主制作盤だったというが、有線放送で全国に広まっていった。

 この佐義が渡辺要のプロ歌手への道を拓いていくことになる。

 佐義が審査員をするカラオケ大会で優勝したり、準優勝するなどしていた要は、地元の歌の世界でも少しづつ名前を知られるようになっていた。
 1980年代になっていた。そんなある日、要を要鮨に訪ねた佐義は「どうしても歌手になってほしい」と頼みこんでいた。「おやじの海」の村木の第2弾となる歌手を探しているというのである。
まだ要にはそんな気はまったくなかった。
 その時も「男前でもない、それほど上手くもない自分が歌手になっても売れないことはわかっていたし、第一みじめになるのが嫌だった」と断っている。
 それでも佐義は「僕は渡辺さんの声が好きなんです」と粘る。

讃岐の山.jpg
渡辺要を育てた讃岐

 取り敢えずカラオケで歌った音源を数曲、後日、送ってそれで判断してもらうことにして、その日は佐義は直島へ帰って行った。
 数日して佐義から届いた返事の手紙には「高音のクリスタルな声が大変気に入ったので、是非とも歌ってほしい」と、再び熱烈なプロポーズの言葉が並んでいた。数日して今度は、ほろ酔い演歌「虎落笛」という楽曲が届いた。

 それでも要の固辞する姿勢に変わりなく「この歌ならば日本コロムビアの歌手、わかばちどりに歌わせたらどうか」と彼女を紹介することになった。佐義も諦めたのか、彼女と交渉してレコード化にこぎつける。ところがわかばが歌ったそれは「あまり売れなかったようです」(渡辺要)と、佐義の第2のおやじの海の思惑は外れてしまった。

中学時代の憧れの人とツーショット、2018年6月の高松公演.jpg
中学時代の憧れの女性とツーショット(2018年6月の高松公演で)

 今度はやはり地元で作曲活動をする渡辺よしまさから呼び出しを受けた。訪ねてみると、そこには東京から作詞家の石坂まさをが来ており、同席していたのである。
 唐突なほどに石坂から「歌ってみて」と言われ、その勢いに押されるままに1曲歌うと、石坂は立ち上がり「君が歌手にならないでどうするんだ。鮨屋はいつでも出来るんだ。歌手になりなさい」と、あらんばかりの声で勧められた。
 またかと思ったものの、今度は要の心は少し揺るぎ始めた。
 当時、紅白歌合戦には演歌・歌謡曲で男性歌手11人が出場していた。
 石坂は「君が歌手になっったら紅白に出場出来る」とまで言い出した。しかもその11人の中でも十分に伍して歌えるとまでいう。

 要には鮨屋で大成しようといった夢があった。しかもそうしたうまい話に乗って騙された人たちを過去に何人も見てきているから、自然と用心深くなっていた。
 そんな要に石坂は「君は3年経ったら必ず紅白に出られるよ」と、追い打ちをかける。
それには要もつい「えっ!本当ですか」と、聞き返してしまった。石坂は「絶対に君の歌は間違いない」と、さらに強い言葉で太鼓判を押してくる。

 今回は今までのようなマイナーな歌の世界での話ではない。一流歌手と対等に競える、というのである。熱心な勧誘に要の心には迷いが出てきた。

レギュラー司会者を務める歌う王冠ライブ.jpg
レギュラー司会者を務める「歌う王冠ライブ」に出演する渡辺要

 東京に帰った石坂は、その後も要に頻繁に電話を寄越した。
 「今ね、マージャンをしているんだがね、高松にサブちゃんの歌を歌っている奴がいる、と話したら興味を持ってくれた人がいるので、今度高松へ連れて行くよ」

 その頃、要は素人歌手として高松のキャバレーでよく北島三郎の歌を歌っていた。
 すると本当に石坂が大手プロダクションの人間を伴って、そこへ現れたのである。
 それをきっかけに石坂は何度も足を運んでおり、その都度、東京から引き連れてきた人たちに「いい声だろう。応援してね」を繰り返すのだったが、要はそれでも決して首を縦には振らなかった。

 このままでは石坂に対しても失礼になる、はっきりと自分の考えを示して断らなくては、と考えた要は渡辺よしまさを訪ねている。義を重んじる要には、うやむやにしておけなかったのである。

若と貴.jpg ところが訪ねるや否や、渡辺まさよしは「これは絶対売れるから一度、聴いてみて」と、歌い始めた。
 ♪ やぐら太鼓が隅田の川に 〜
 「これがいい歌だったんですよ。思わず先生、これいいね。俺、やるわ」
 あれほどかたくなに断り続けていたのに、要はいとも簡単に言ってしまった。

 要はすぐに何事にも感動してしまう。
 リコー三愛グループの創始者、市村清が銀座の土地は買収に難航していた時、その土地の地権者が大雪の中を断りに本社ビルまで出向くと、濡れた足元を見た女性事務員が自分のスリッパを履かせて社長室へ案内したことに、地権者は感激して土地を売る決心をするといったエピソードに倣い、この日は手土産を下げてわざわざ出向いたのである。

 なんと結果もエピソード通りになり、ミイラ取りがミイラになってしまった訳である。その時に聴かされた歌がデビュー曲「若と貴」になる。
 1992(平成4)年5月、毎年奉納相撲が行われてい香川県綾川町の滝宮神社の土俵で新曲発表をすることになった。

続く

「渡辺要物語 歌は心の港」第10回
https://music-news-jp.blog.so-net.ne.jp/2018-09-21
「渡辺要物語 歌は心の港」第9回
https://music-news-jp.blog.so-net.ne.jp/2018-09-19
「渡辺要物語 歌は心の港」第8回
http://music-news-jp.blog.so-net.ne.jp/2018-04-27
「渡辺要物語 歌は心の港」第7回
http://music-news-jp.blog.so-net.ne.jp/2018-04-25
「渡辺要物語 歌は心の港」第6回
http://music-news-jp.blog.so-net.ne.jp/2018-04-24
「渡辺要物語 歌は心の港」第5回 四国1番の鮨店になる
http://music-news-jp.blog.so-net.ne.jp/2018-02-09
「渡辺要物語 歌は心の港」 第4回 名物穴子鮨
http://music-news-jp.blog.so-net.ne.jp/2018-02-04
「渡辺要物語 歌は心の港」 第3回 1番店へ
http://music-news-jp.blog.so-net.ne.jp/2018-02-03
「渡辺要物語 歌は心の港」 第2回 「要鮨」開店
http://music-news-jp.blog.so-net.ne.jp/2018-02-02
「渡辺要物語 歌は心の港」 第1回 大阪・法善寺横丁の寿司屋で修業
http://music-news-jp.blog.so-net.ne.jp/2017-11-28
「渡辺要物語 歌は心の港」  プロローグ
http://music-news-jp.blog.so-net.ne.jp/2017-11-23

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