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「渡辺要物語 歌は心の港」  プロローグ [インタビュー]

◆歌手渡辺要(日本クラウン)が2017年11月23日、73歳の誕生日を迎えた。そして明日、24日には歌手生活25周年を祝うディナーショーを大阪市都島区にある太閤園で開く。関西発の音楽情報ブログ「Music news jp」では、渡辺要の半生記「渡辺要物語 歌は心の港」を、Facebook・Twitter・Youtubeと連動して10回に分けて掲載する。

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渡辺要

 今回はそのプロローグである。

 大阪府堺市にある渡辺要の事務所では、かつて高松・ライオン通りで渡辺が経営していた寿司店「要鮨」本店に掲げられ、最高時の売上が年間2億8千万円という四国一の寿司屋として名を馳せた頃の、木の大きな看板がテーブルの天板代わりに使われている。そこに彫られた要鮨の力強い文字は渡辺自らが書いたもので、彼の意気込みを強さを表しているかのようである。

 その寿司店は、カウンターだけのわずか5坪、家賃は月2万7千円いう店舗からスタートしている。
東洋の魔女と呼ばれた日本女子バレーボールチームの優勝で日本全国が沸き上がった、東京オリンピックの興奮がまだ冷めやらない1964(昭和39)年11月のことだった。手元にあった15万円と、母親から借りた50万円を元手に、高松市常盤新町に小さな店を開店した。
 後に結婚することになる、当時付き合っていた東京のデパートで働く同い歳の女性を高松へ連れ帰って、ふたりでの船出だった。

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デビュー25周年を記念したディナーショー


 1944(昭和19)年11月23日、香川県木田郡西植田村の小さな農家の8人兄弟の末っ子として生まれている。13歳で中学に進学するとすぐに、父親が49歳で亡くなった。高校生だった兄姉は昼間部から夜間部に変更して、家計を助けるために働きに出た。

 要も「高校へ行かずに、同級生や従兄弟たちが大学へ行っている間に、いつか一国一城のあるじになってやろう。そして母に自慢できる男になるんや。それまでは田舎には帰らない」
 と決意して、中学を卒業した年の春に要は、名古屋市のミシン工場で働き始めた。
 高松の港で母親に見送られ、勇んで飛び出したものの、名古屋での住まいは3畳一間、給料は3千円という生活で、決して思い描いていたものではなかったのである。


[渡辺要 オフィシャルサイト]
http://www.kaname8739.com/index.html







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