野中さおり、笑顔笑顔でデビュー35周年 感謝を込めた記念シングル「花絆」 [インタビュー]
◆歌手野中さおり(徳間ジャパンコミュニケーションズ)がデビュー35周年を迎えている。ファルセットを効かせた歌唱は彼女の大きな魅力であり、歌の哀愁感をよりいっそう高めてくれている。今まで山あり谷ありの歌手人生であったが、「笑顔でいると皆さんに元気になってもらえる」と笑顔と笑い声を絶やさない。35周年記念シングル「花絆」も「笑顔笑顔で皆さんと一緒に歌える作品」だという。
写真・笑顔を絶やさない野中さおり
デビューは1990年8月。野中彩央里の名前であった。男歌「度胸人生」がデビュー曲で、まだ16歳であった。
2作目の高知・四万十川を舞台にした「火振り酒」(92年)は、「後々までカラオケ大会で良く歌われている作品で、これを歌ってプロになった後輩歌手もたくさんいます」というほど、当時、話題になった楽曲であった。
大きな転機になったのは、デビュー5周年記念曲で4枚目のシングル「雪国恋人形」(94年9月)で、今でも野中が歌い続けており、彼女の歌手としての存在感を高めた作品でもある。
それまで男歌を歌ってきた彼女は、この年から「女歌を歌わせてもらえるようになった」と、大人になった証の作品でもあった。
これを作曲した岡千秋は、野中のこけしのような表情からイメージして書いた作品だという。
■北京・紫禁城で歌った思い出
中学生の頃から日本調の歌が大好きだったという野中は、その頃テレビで良く目にしていた芸者歌手市丸に憧れ、20代になると、そうした日本調のお座敷メロディー作品を歌う夢を叶えている。
デビュー10周年の時、初の全国コンサートツアーを60会場で120公演を行なっているが、「1部はオリジナル曲、2部は日本調の作品をメインにしたステージを行った」ことで、歌手としての幅を広げることになった。
こうした35年の歌手生活の中で最も忘れられない思い出になったのが、2000年の北京・紫禁城で開かれた「世界遺産を守ろうコンサート」で歌ったことだったという。
野中は「世界のアーティストで紫禁城で歌ったのは私が最初でした」と、大きな自信につながった出来事として記憶に刻んでいる。
翌01年には、第1回北京歌謡祭に参加しているし、それより先1991年には、日本・スペイン友好親善「セビリア・フィエスタ」に出演しているなど、海外での活動が相次いだ頃であった。
写真・笑顔笑顔でみんな元気になってほしい
このように野中はデビュー10年間で多方面で才能を発揮するのであるが、その一方で自身へのプレッシャーが幾つも重なっていく。
それを振り切るために、ありのままの自分を表現しようーと、気持ちを切り替える。
それは表情に現れた。
「いつも笑顔でいると元気になれるし、周りの皆んなも元気になってくれるといいなぁ」
目を細めた笑顔はいつの間にか、野中さおりのトレードマークになっていった。
■感謝の気持ちを込めて
野中の楽曲を数多く手掛けてきた作曲家徳久広司は35周年記念曲「花絆」も曲を書いている。
その作品を野中は「35年間を支えてくれたファンの皆さんをはじめ、たくさんの人々への感謝の気持ちを伝え、笑顔笑顔で皆んなで歌える作品にしてもらいました」と話す。
気がついたら35年という大きな節目を迎えていたという野中。これからもファルセットを生かした歌声を響かせていく。
動画・デビュー35周年の意欲を語る
※写真・記事の無断使用はお断りします。
[野中さおり オフィシャルサイト]
https://ameblo.jp/saori-nonaka/
[野中さおり 徳間ジャパンコミュニケーションズ]
https://www.tkma.co.jp/enka_top/nonaka.html
写真・笑顔を絶やさない野中さおり
デビューは1990年8月。野中彩央里の名前であった。男歌「度胸人生」がデビュー曲で、まだ16歳であった。
2作目の高知・四万十川を舞台にした「火振り酒」(92年)は、「後々までカラオケ大会で良く歌われている作品で、これを歌ってプロになった後輩歌手もたくさんいます」というほど、当時、話題になった楽曲であった。
大きな転機になったのは、デビュー5周年記念曲で4枚目のシングル「雪国恋人形」(94年9月)で、今でも野中が歌い続けており、彼女の歌手としての存在感を高めた作品でもある。
それまで男歌を歌ってきた彼女は、この年から「女歌を歌わせてもらえるようになった」と、大人になった証の作品でもあった。
これを作曲した岡千秋は、野中のこけしのような表情からイメージして書いた作品だという。
■北京・紫禁城で歌った思い出
中学生の頃から日本調の歌が大好きだったという野中は、その頃テレビで良く目にしていた芸者歌手市丸に憧れ、20代になると、そうした日本調のお座敷メロディー作品を歌う夢を叶えている。
デビュー10周年の時、初の全国コンサートツアーを60会場で120公演を行なっているが、「1部はオリジナル曲、2部は日本調の作品をメインにしたステージを行った」ことで、歌手としての幅を広げることになった。
こうした35年の歌手生活の中で最も忘れられない思い出になったのが、2000年の北京・紫禁城で開かれた「世界遺産を守ろうコンサート」で歌ったことだったという。
野中は「世界のアーティストで紫禁城で歌ったのは私が最初でした」と、大きな自信につながった出来事として記憶に刻んでいる。
翌01年には、第1回北京歌謡祭に参加しているし、それより先1991年には、日本・スペイン友好親善「セビリア・フィエスタ」に出演しているなど、海外での活動が相次いだ頃であった。
写真・笑顔笑顔でみんな元気になってほしい
このように野中はデビュー10年間で多方面で才能を発揮するのであるが、その一方で自身へのプレッシャーが幾つも重なっていく。
それを振り切るために、ありのままの自分を表現しようーと、気持ちを切り替える。
それは表情に現れた。
「いつも笑顔でいると元気になれるし、周りの皆んなも元気になってくれるといいなぁ」
目を細めた笑顔はいつの間にか、野中さおりのトレードマークになっていった。
■感謝の気持ちを込めて
野中の楽曲を数多く手掛けてきた作曲家徳久広司は35周年記念曲「花絆」も曲を書いている。
その作品を野中は「35年間を支えてくれたファンの皆さんをはじめ、たくさんの人々への感謝の気持ちを伝え、笑顔笑顔で皆んなで歌える作品にしてもらいました」と話す。
気がついたら35年という大きな節目を迎えていたという野中。これからもファルセットを生かした歌声を響かせていく。
動画・デビュー35周年の意欲を語る
※写真・記事の無断使用はお断りします。
[野中さおり オフィシャルサイト]
https://ameblo.jp/saori-nonaka/
[野中さおり 徳間ジャパンコミュニケーションズ]
https://www.tkma.co.jp/enka_top/nonaka.html