田浦高志というこの男、とにかく客を楽しませることに徹している。これぞライブとでもいうのか、3時間になろうかという持ち時間、誰ひとりとして飽きさせることなく、途中少しの休憩を挟んだものの、ギターを弾きながらマイクも使わずに、1人で27曲も歌ってしゃべったのである。
彼が歌声は離れた人にもちゃんと届くし、かと言って近くにいる人には決してうるさくはない。狭い居酒屋で身に着けた流しのコツである。
浪曲師の父と曲師の母を持つ田浦が、流しの世界に飛び込んだのは16歳の時だった。最初は先輩について歩くのだが、歌うのは毎日同じ3曲ばかりだったという。この日のライブのオープニングは、その修業時代に歌っていた「逢いたかったぜ」「おまえとふたり」「男の涙」だった。
「子供の頃から浪花節を唸っていたし、舞台に上がってもマイクは使いませんでした。客席から投げ銭が飛んでくるんですが、歌い終わってそれを拾うのが恥ずかしくて嫌で仕方なかった」(田浦)
田浦高志のオリジナル曲「北で逢った女」(1999年)
「歌わなくても稼いでいた流しもいた」(田浦)ように、入った店では客とのコミュニケーションが大切だった。「喜ばせるためには、客の顔を見てどんな歌が好きかな、と想像して歌うんです。そうすると、よう知ってるなぁ~と言って祝儀を頂けます」(同)
中でも人気があったのは北島三郎の歌で、「風雪ながれ旅」「歩」「加賀の女」「終着駅は始発駅」は定番だった。
大阪・ミナミの歓楽街である飛田では、職人がエリート層だったし、ニッカポッカ姿の客もたくさんいた。そんな彼らからは「484のブルース」「河内遊侠伝」「釜ヶ崎人情」「恋あざみ」などなども好まれたし、田端義夫の「別れ船」「ふるさとの灯台」を歌いながら涙を流していた。店のママからは「他人船」も人気だったという。
そんな歌に酔いしれた客は祝儀を渡してくれる。手で受け取るのは流しにとっては失礼極まりないことだ、と田浦は教えられた。そんな時、ギターの胴体に入れてもらうのだが「中には百円玉をいっぱいほり込む客もいて、事務所に帰ってから取り出すのが大変でした」といったエピソードも。
ゲスト出演したちんどん通信社の林幸治郎
流しの値段は3曲で1000円が相場とも言われていたが、決して決まっていたわけではない。田浦は「次の店はないと思って、入った店でいかに客を楽しませ、気に入られ稼ぐかが勝負であった」と話す。そんな真剣勝負で毎日歌ってきた彼は、今はもう流しはやらないという。「だってAKB48なんてリクエストされても歌えないしね」と笑わせるのであった。
[田浦高志 オフィシャルサイト]
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