第56代横綱の2代目若乃花に抱かれる愛一郎、要鮨で
渡辺要にとって愛一郎は、結婚8年目でようやく出来た1人息子で、要鮨のお坊ちゃまとして、文字通り目の中に入れても痛くないほどに溺愛して育てた。それだけに息子の死を知らされた要の悲しみは尋常ではなかった。
東京の母親の元から高松に戻った愛一郎は、高松市立四番丁小学校(現・新番丁小学校)の4年に編入した。同時に少年野球チームに入ると、すぐにレギュラーになったほど運動神経は抜群であった。
県下トップクラスの香川県立高松高校への進学者が多いことでも知られた同市立紫雲中学へ進んでからも、部員が150人もいた野球部に入り「1年からベンチ入りしており、店にあった宴会用の太鼓を持って応援にも行った」と、要は周囲も憚らずにあらんばかりの親バカぶりを見せていた。
大手前高松高校では、成績順に1組から6組までのクラス編成がされていた。入学当初は6組だった愛一郎だが、2年で3組、3年では1組に進むなど優秀ぶりを見せた。
クラスの入れ替えはテストの成績で決められていた。
「テストでクラスで1番を取った時には、愛一郎は喜び勇んで帰ってきて、店に立っている僕に報告してくれました。祝いや、と叫んで赤飯を炊いて鯛の活造りを作ったもんです。小学生の頃には遠足や運動会となると、従業員が、親っさん弁当作りますわ、といって豪華な弁当を作ってくれて、それを持たせました。クラス全員の弁当を作ったろか、と言ったこともありました」
「道頓堀SUPER歌謡劇場」(2016.6.21)で歌う渡辺要
さすがに愛一郎も、そんな父親に「恥ずかしいからやめてくれ」と断っている。
大学生生活は4年間、東京で過ごし、卒業後はそのまま東京で就職している。
そんな愛一郎の身体に変化が見られるようになったのは、27歳になった頃からであった。
ある日突然、母親の千恵子が慌てふためいて「愛一郎がおかしい。押し入れに入って出てこない」と、電話がかかってきたのが始まりだった。
要は信じられなかった。いつも活発に野球をするなどパワフルなイメージしかなかった息子が、そんなことになるなんて嘘だとしか思えなかった。
「なにをアホなことを言うてるんや。そんなことになるわけがないやろう」
要は千恵子を怒鳴りつけた。
高松に帰りたいという愛一郎の希望通りに戻らせると、まるで子供みたいに「父さん・・・」と、か細いで話しかけてくるだけであった。ボールを追ってグラウンドを走っていた元気な愛一郎とは、まったく別人になっていたのである。
病院での診断はうつ病だった。「改善はするが、完全には治らないだろう」とも宣告された。
病状を心配して千恵子が東京から駆け付けると、愛一郎は「2度と来るな、帰れ」と母親をまったく受け付けようとはしない。
離婚して東京へ戻った千恵子には新しい男性がおり、彼女の両親が亡くなると家に入れて愛一郎と3人での生活が始めていた。医者は「それが原因で自分の居場所がなくなった、と思わせるようになり、病気を悪化させたのだろう」と推測するのだった。
続く
「渡辺要物語 歌は心の港」第7回
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「渡辺要物語 歌は心の港」第6回
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「渡辺要物語 歌は心の港」第5回 四国1番の鮨店になる
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「渡辺要物語 歌は心の港」 プロローグ
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