高橋樺子。たかはし・はなこと読む。愛称は<かばちゃん>である。ファンクラブの名前もも「KABAKKO CLUB(カバッコ クラブ)」で、マスコットはカバだ。
作詞家のもず唱平に弟子入りしてから名づけられたという。
「鼻が時折開くところがカバに似ていると言って呼ばれるようになったのがきっかけです」
そのかばちゃんが歌手デビューしたのは、もずら4人の関西ゆかりの音楽家たちによって東日本大震災からの復興を支援しようと作られた楽曲「がんばれ援歌」(当初は大阪発がんばれ援歌)がきっかけだった。
それまで<平和>をテーマに歌の勉強を続けていた高橋に「人々の平和を脅かすのは戦争ばかりではない。災害もまた同じだ」(もず)と言って、出来あがったばかりの楽曲の歌唱が勧められた。
「当初はCD化なんて考えてもいなかったんですが」と振り返る高橋だが、小学生の頃から歌手になるのが夢だった。
もずに弟子入りするのは、最後と思って出場した2007年の関西歌謡大賞でチェウニの「メモリー・レイン」を歌って、見事にグランプリを受賞したのがきっかけだった。
ところがその時の審査員で、現在は高橋の師匠である作詞家、もず唱平はその時、彼女にとって耳の痛い話をしている。
「私だけが酷評されたように記憶しています。<歌手になりたいか>と質問されたので、なりたいです、と答えると<ブレス位置の間違いが4か所あって、言葉が聞き取れない。素人ならそれでもいいが、それではプロの歌手にはなれません>と指摘され、半泣きになってしまいました」
その後、もずは高橋のそばに来て「歌手になりたいなら事務所に電話してきなさい」と話しかけたという。しかも「しつこくかけておいで」と不思議なことを付け加えたという。
その意味は電話をかけて初めてわかった。
何度かけても取り次いでもらえないのだ。5回目ぐらいだったろうか、ようやくもずと話ができ、1年間の期間限定で弟子入りが決まった。08年のことである。
大阪市内のマンションを引き払って、布団と着替えだけを、もずの事務所に運び入れた。以来、そこで寝泊まりする生活が4年間続いたが、約束の1年が経っても歌手になるチャンスはまったくなかった。
「これで終わりか」と思っていたら<やる気があるんなら、もっと来たらいい>というもずの言葉に救われたが、<事務所のスタッフ>という身分に変わりはなかった。
そんな生活を続けて4年目、降ってわいたように「がんばれ援歌」のレコーディングの話がやってきた。関西にこだわるもずはあえて大阪でレコーディングした。
高橋にとって初めてのレコーディングにもかかわらず、声は少し暗かったという。「明るく歌わなあかん」と、もずに指摘されて ♪ 負けたらあかん~ と自らを励ますように歌い上げた。
6月にデビューしてから何度も歌い続けてきた。福島県の被災地へも出かけて歌った。「今ではこの楽曲が愛おしくてたまらない」という。
「将来は恋歌なども歌ってみたいし、人の心に残る歌を歌っていきたいですが、今は与えられた<平和>というテーマを人々に伝えられる歌唱力を身に付けるが一番と思っています」
流行歌ライブとともに月に1度、大阪市中央区のピースおおさかで開かれている復興支援の「平和の歌声カラオケ道場」で、参加者と一緒になって「がんばれ援歌」を歌い続けている。
高橋にとってこの楽曲は、単なるデビュー曲ではなく、心の内にある想いを人々に伝えるための、かけがえのない体験になっているようである。
[高橋樺子のオフィシャルサイト]
http://bachmoon2.luna.bindsite.jp/index.html