「こんなに長く歌うと思ってなかったんですよ」
きのう(14年11月18日)大阪市内でインタビューに応じた水前寺はそう話した。
当初3年で歌手を辞めると思っていたが、それが5年になり10年になった。「だんだんと欲が出てきた」という。そうさせたのはデビュー時代からいつも客席から聞こえてくる「チーター~!」という大きな掛け声だった。もちろんチーターとは恩師星野が名付けたという水前寺のニックネームである。
「着流しで演歌を歌ってきただけに、その時はワンツー、ワンツーなんて歌うのは嫌で仕方なかった。『何でも歌えなければ息の長い歌手になれない』という先生の想いが分からなかったんですね」
恩師の想いを理解できたのはデビューして10年も経った頃だったという。以来、水前寺はそれを片時も忘れずに、まさに一歩一歩を積み上げていった。
50年の歌人生では次々と新人歌手が水前寺を追いかけてきた。その中で記憶に残るのは三味線を抱えて歌った「帰ってこいよ」(1980年)でデビューした松村和子と、後に「喝采」「紅とんぼ」などのヒットを出すちあきなおみのデビュー(69年)だったという。
「この2人にはオーッと思いましたね。それに一番の仲良しだった青江三奈さんとは一度も歌の話をしたことがなかった。私は歌を聴きに来てと言うが、彼女は絶対に来ないでと言っていた正反対なんですが、男っぽい性格などは似てましたね」
忘れられない情けの町大阪
日本コロムビアのオーディションで2位になって星野から声を掛けられて歌手への道を目指すことになった水前寺だが、コロムビアでは研究生として11回もレコーディングするもののデビューに至らなかった。日本クラウン創設とともに移籍して、「涙を抱いた渡り鳥」でデビューしている。
何度も繰り返したレコーディングだが、若かったこともあるのだろう「デビュー出来なくても、歌えるのが楽しかったですね」という。
歌が上手いと言われた水前寺だったが、どうしてそのように回数を重ねることになったのか。
「下手だからデビューできなかったんでしょうね」と水前寺は言い切る。
しかし上手い下手というよりも、それを越えたものが不足していたのかもしれない。
それを体得したのはデビュー後のようだ。大阪という土地が可能にしてくれたようだ。大阪と聞いて水前寺は「大劇、お好み焼き、お笑い」を連想すると言うほど、デビュー後は大劇をはじめ大阪での歌番組に多く出演している。
歌番組ばかりではなく朝日放送テレビの人気番組「てなもなや三度傘」などお笑いドラマにも出演している。後に自分のステージで「女てなもんや三度傘」を演ったほど、この番組には影響を受けたようだ。
「てなもんや-では男役で出演しました。主演の藤田まことさんは、その後もずっと大事にしてもらいましたね」
その後、舞台で「一心太助」を演じたり、今、「森の石松」と呼ばれるのは、当時の名残なのかもしれない。
50周年記念コンサートは、そうした大阪の地でスタートする。しかも念願の浜村淳を司会に初めて起用する。
「皆さんご存知の懐かしい歌などをたくさん歌いたい」とし、9月3日に出したばかりの新曲の50周年記念曲「人情(なさけ)」も披露する。今までの出会い、巡りあいが50年を支えてくれて「苦しい思い出はひとつもない」という自らの歌人生を歌う。
カップリングの「ありがとうの歌」は、大阪万博が開かれた1970年にプロデューサーの石井ふく子に口説かれて出演した、これもひとつの巡りあいであったテレビドラマ「ありがとう」の主題歌「ありがとうの歌」を、サンバのリズムで新たにアレンジし直したものである。
「ノリのいい大阪のお客さんと一緒に歌って踊って、盛り上げたい」
来年はサンバなどラテン音楽にでも挑戦したいという好奇心旺盛の大ベテランである。
[水前寺清子 オフィシャルサイト]
http://www.chita365.net/
[水前寺清子 日本クラウン]
http://www.crownrecord.co.jp/artist/suizenji/whats.html