あこや楽器店社長 野村茂夫氏 創業56年、スタートは邦楽器店 (1) [インタビュー]
◆今ほどCDが売れない時があったであろうか。CDショップにとっては受難の時である。大阪・天満にあるCDショップ「あこや楽器店」は、今年で創業56年になる。やはり苦しい状況は隠せないが、それでも演歌を主体にした販売で何とか顧客を維持している。街のCDショップが生き残るには、演歌による店づくりが最善策なのかもしれない。そんな同店は、姫路市の邦楽器店・あこや楽器店に端を発している。創業者で、今なお店頭にも立っている86歳の現役である野村茂夫社長に56年の道程を聞いた。
◆野村が、大阪・天満の今の場所で個人商店「あこや楽器店」を開業したのが昭和29年だった。26歳で結婚して間もなくだった。店名が示す通り当時は、三味線や琴など邦楽器を販売するだけであった。レコードを販売するようになるのは35年からである。世間でレコードが良く売れはじめた頃である。
その頃の天神橋筋商店街といえば、洋服店がたくさん並んでいたという。とにかく着るものが求められていた。そんな中で楽器店を始めたわけであるが、毎日の生活には無縁とも思える商売をしているのは、近くでは当時から斜め前に店舗を構えていた額縁店と2店舗ぐらいだったという。
野村は大正13年、兵庫県赤穂市で生まれている。生家は吉良邸に打ち入りした赤穂義士47人の1人で、大石内蔵助の縁戚関係に当たる潮田又之丞高教の屋敷跡にあったという。「代々、野村家がそこの土地を所有していたようです」
召集令状を受けた野村が入隊したのは、愛媛県松山市にあった航空隊であった。配属されたのは飛行機の地上整備班だった。
「ここではひどいしごきに遭いました」。
入隊して3ヵ月したとき足が腫れ上がり、39度の熱にうなされた時も、同じ部隊の兵隊たちは「臨入(臨時入院)じゃ」と言って、介護するどころか厄介者でも扱うような感じだった。
松山城内の陸軍病院に3ヵ月入院して、ようやく回復したら、高松へ転属させられた。終戦は埼玉県で迎えたという。8月15日の玉音放送は、農家に集められてそこでラジオを聴いている。天皇の声は聞き取りにくかったが、「何か、受諾という言葉を繰り返していたような記憶があります」と振り返っている。
故郷の赤穂へ戻ってきたのは、それか1ヵ月後だった。22、3歳だった。
◆赤穂に帰った野村はすぐに仕事を探し始める。
その頃、姉が夫婦で楽器店を奈良で経営していた。野村は「楽器店もいいなぁ」と、姉の店で見習いで働き始める。
2年ほど働いて、開業資金を姉から借りて独立する。店舗は警察官OBが経営していた本屋の店舗を買った。それが今の、あこや楽器店である。
「姉は戦争中から姫路のあこや楽器店で勤めていたこともあって、奈良に出店する時にも<あこや>の名前をもらっている」
今の店名は、そこに由来するのである。
レコードが売れると聞いて、並行してレコード販売を始めるが、これがまた大変であった。
売れるのはいいが、毎日、自転車で日本橋1丁目あたりにあった問屋まで商品を仕入れに行かなければならなかった。その頃は78回転のSP盤が主力だった。売れるのは歌謡曲にジャズ、クラシックといったものだった。
こうした商売を4、5年続けて、景気が上向いた39年に店を法人化している。その1、2年前からメーカーとの取引を始めるようになっていた。
「その頃、メーカーと取引を始めるには、近隣の同業者の許諾が必要でした。天神橋筋6丁目に大塩楽器店というお店があり、承諾してもらいに訪ねたことがあります。承諾書に判をもらって、ようやく全メーカーとの取引ができるようになったのです」
景気がいいから、メーカーは店にどんどんと商品を送り込んでいたという。店は瞬く間に在庫の山。今と違って、商品があれば売れたし返品も受けてくれていた時代であった。そうした商品を売るために、支店を4、5店舗持つことになったという。
(続きは後日に=掲載日は未定)
邦楽器専門店からスタート
◆野村が、大阪・天満の今の場所で個人商店「あこや楽器店」を開業したのが昭和29年だった。26歳で結婚して間もなくだった。店名が示す通り当時は、三味線や琴など邦楽器を販売するだけであった。レコードを販売するようになるのは35年からである。世間でレコードが良く売れはじめた頃である。
その頃の天神橋筋商店街といえば、洋服店がたくさん並んでいたという。とにかく着るものが求められていた。そんな中で楽器店を始めたわけであるが、毎日の生活には無縁とも思える商売をしているのは、近くでは当時から斜め前に店舗を構えていた額縁店と2店舗ぐらいだったという。
野村は大正13年、兵庫県赤穂市で生まれている。生家は吉良邸に打ち入りした赤穂義士47人の1人で、大石内蔵助の縁戚関係に当たる潮田又之丞高教の屋敷跡にあったという。「代々、野村家がそこの土地を所有していたようです」
召集令状を受けた野村が入隊したのは、愛媛県松山市にあった航空隊であった。配属されたのは飛行機の地上整備班だった。
「ここではひどいしごきに遭いました」。
入隊して3ヵ月したとき足が腫れ上がり、39度の熱にうなされた時も、同じ部隊の兵隊たちは「臨入(臨時入院)じゃ」と言って、介護するどころか厄介者でも扱うような感じだった。
松山城内の陸軍病院に3ヵ月入院して、ようやく回復したら、高松へ転属させられた。終戦は埼玉県で迎えたという。8月15日の玉音放送は、農家に集められてそこでラジオを聴いている。天皇の声は聞き取りにくかったが、「何か、受諾という言葉を繰り返していたような記憶があります」と振り返っている。
故郷の赤穂へ戻ってきたのは、それか1ヵ月後だった。22、3歳だった。
メーカー取引には近隣店の承諾が
◆赤穂に帰った野村はすぐに仕事を探し始める。
その頃、姉が夫婦で楽器店を奈良で経営していた。野村は「楽器店もいいなぁ」と、姉の店で見習いで働き始める。
2年ほど働いて、開業資金を姉から借りて独立する。店舗は警察官OBが経営していた本屋の店舗を買った。それが今の、あこや楽器店である。
「姉は戦争中から姫路のあこや楽器店で勤めていたこともあって、奈良に出店する時にも<あこや>の名前をもらっている」
今の店名は、そこに由来するのである。
レコードが売れると聞いて、並行してレコード販売を始めるが、これがまた大変であった。
売れるのはいいが、毎日、自転車で日本橋1丁目あたりにあった問屋まで商品を仕入れに行かなければならなかった。その頃は78回転のSP盤が主力だった。売れるのは歌謡曲にジャズ、クラシックといったものだった。
こうした商売を4、5年続けて、景気が上向いた39年に店を法人化している。その1、2年前からメーカーとの取引を始めるようになっていた。
「その頃、メーカーと取引を始めるには、近隣の同業者の許諾が必要でした。天神橋筋6丁目に大塩楽器店というお店があり、承諾してもらいに訪ねたことがあります。承諾書に判をもらって、ようやく全メーカーとの取引ができるようになったのです」
景気がいいから、メーカーは店にどんどんと商品を送り込んでいたという。店は瞬く間に在庫の山。今と違って、商品があれば売れたし返品も受けてくれていた時代であった。そうした商品を売るために、支店を4、5店舗持つことになったという。
(続きは後日に=掲載日は未定)
2010-04-14 23:58
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コメント(5)
CDが書店でも売られるようですね。
by pandan (2010-04-15 07:25)
こんにちは、応援になります。
(^▽^)/
デジタイズとネットの発達で、
メディア(本、CDやDVD)は数年後には無くなるかもしれませんね。
これが無くなると店も無くなってくるんでしょうね。
☆
by じぃじぃ (2010-04-15 12:11)
兵隊当時には、大変な目に遭ったんですね。
あこや楽器名前だけは、知ってます。
家の親父より3つ上ですね!
by k-hiro (2010-04-15 19:16)
許可がいるっていうのも面白い逸話ですね^。^
by デルフィニウム (2010-04-15 19:21)
はじめまして。
近鉄奈良駅前の小西通に、あこや楽器が有りましたよね。ニチイ(今のビブレ)の斜め向かいだったと思います。
まだガキだったけど、レコードを買ってもらった覚えがあります。
by okadayut (2012-01-15 22:51)