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渡辺要物語 第14回 生い立ち(2) [半生記]

渡辺要の父親、野中松太郎は1958(昭和33)年9月23日、渡辺がまだ中学1年の時に胃ガンで亡くなった。49歳であった。中学に入ると別天地がある、自由があると思っていた要だったが、それとは逆に学校に行くのが嫌で兄たちを手こずらせていた。何かにつけて貧乏人の子と見られ、先生をはじめ周りの一言ひとことが、自分が差別されていると映っていたからだった。

渡辺要.jpg
今は関西を代表する歌手の渡辺要もかつては不良少年だった頃も


 父親は朝早くから田んぼに出て良く働いたが、要がその姿を記憶しているのは、ほんの少しの間だけである。父が病を患ってからは、ほとんど自宅で寝たきりだったからである。
 「学校から帰るたびに玄関の履物の数を見るんです。家族以外のものがあると親父の容態が悪くなったと思っていたからで、いつも通りの数だとホッとしたもんです」

 そんな父親も若い時には村の相撲取りとして近在の者の間では知られ、村でも屈指の力持ちでもあった。子供たちには厳しく、兄たちは父親から殴られ良く叱られた。そんな光景を要は良く見ていたので「要領良く立ち回って怒られることはなかった」というが、父親にとっては腕白でも末っ子は可愛くて仕方なかったのであろう。

 父親の死は彼の心にぽっかりと大きな穴を作った。それに輪をかけるように、母と長兄が家で取れた農作物を外へ売りに出ることを始めた。ほかの兄弟は就職や結婚などで全員がすでに家を出ていたので、家に残ったのは兄嫁とその子供達だけとなって、ますます要は孤立化する。
 しかも「兄嫁からは食べたい物も食べさせてもらえず、いつもいじめられていた」ことが、学校で貧乏人と見られる劣等感と重なって彼を非行へと走ることになった。

渡辺要2.jpg
同じ関西を代表する女性歌手の1人、浅田あつこと

 不良グループのボスになった要は、万引き品を自慢したりボスの座を争う喧嘩をして相手を傷付けもした。授業妨害をして教師からはビンタを食らうことも珍しくなかった。このビンタ教師が後に要が高松市内で鮨店を開業すると、いち早く駆けつけてくれて常連客になったというから、人生とは面白いものである。
 喧嘩して強がる要だったが「内実は強そうに見せていただけで、頭が悪いけど腕力がある生徒を子分にして連れて歩いていた」といい、先生に謝るのはいつも<親分>である彼の役目だった。

 ますます周りからは孤立していた要にある女生徒は、中学を卒業する日に「絶対にヤクザになんかならないでね。要さんという名前は、扇のカナメという意味ですから、もしヤクザになっても親分になるでしょうね」といった手紙をもらうほどの悪だったのである。



「渡辺要 歌は心の港」 第14回
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「渡辺要物語 歌は心の港」第13回
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「渡辺要物語 歌は心の港」第12回
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「渡辺要物語 歌は心の港」第11回
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「渡辺要物語 歌は心の港」第10回
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「渡辺要物語 歌は心の港」第9回
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「渡辺要物語 歌は心の港」第8回
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「渡辺要物語 歌は心の港」第7回
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「渡辺要物語 歌は心の港」第6回
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「渡辺要物語 歌は心の港」第5回 四国1番の鮨店になる
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「渡辺要物語 歌は心の港」 第4回 名物穴子鮨
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「渡辺要物語 歌は心の港」 第3回 1番店へ
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「渡辺要物語 歌は心の港」 第2回 「要鮨」開店
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「渡辺要物語 歌は心の港」 第1回 大阪・法善寺横丁の寿司屋で修業
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「渡辺要物語 歌は心の港」  プロローグ
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渡辺要物語 第13回   生い立ち(1) [半生記]

◆日本クラウンの歌手、渡辺要は1944(昭和19)年11月23日、香川県木田郡西植田村で、農家の野中松太郎と母ミノルの間で8人兄姉の末っ子として生まれている。両親は従兄妹どうしであったという。母親は教員一家の家庭に育ったこともあって、農作業は慣れない仕事だった。渡辺要は本名であるが、両親と名字が違う。これには少々事情がある。元妻の千恵子と結婚する際に、長女でひとりっ子だった妻の姓を名乗ることにしたのである。決して養子として渡辺家へ入るというものではなかった。彼の千恵子への優しさの表れのようでもあった。

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レギュラー出演するテレビ番組「歌に恋して」で司会をする藤井加奈子(右)と


 末っ子ということもあって、小さなころから甘やかされて育てられた渡辺は、田んぼの中を走り回って遊んでいた。ところが農繁期ともなれば、遊んでばかりはいられない。親の農作業を手伝わされることはなかったが、もっぱら兄や姉の子供を背負って子守りを任されていた。父親たちが農作業をするかたわらで、泣きじゃくる赤ん坊をあやすのである。

 遊びたい盛りの6歳の小さな子が、赤ん坊の面倒を見るのであるから、背中で泣き始めると彼も一緒になって泣き出すといった具合で、子守は嫌で嫌で仕方なかった。それだから「甥っ子や姪っ子を可愛いと思ったことがない」といい、子供が嫌いになった理由も、この頃の経験があるからである。

 腕白な割に照れ屋だった要は、学校では絵を描いたり歌を歌うのが得意だったという。教師が弾くオルガンに合わせて歌うと、大きな声が出るとか、歌が上手いといっては褒められていた。町ののど自慢では優勝しては賞品をもらっていたという。

 通っていた西植田村立小学校(現・高松市立西植田小学校)までは8キロもあり、1年の時には家の近くにあったお寺が分教場で、そこで勉強をした。2年に進級すると本校へ通ったが、この頃にはいろんな思い出があるという。
 中でも忘れられないのが、家が貧乏だったということである。家族が食べるだけのの米や野菜を作るだけの俗に言う三反農家で、小学校の制服も買ってもらえず、冬も白いシャツ1枚で通っていた。

 貧乏だったが中学へ進むと、別世界へ行けると信じていた。「自由に生きて天下を取るぞ」と、子供ながらにそんな大そうな夢を描いていた。母親も外へ働きに行くようになり、収入も少しずつ増えていたようである。

 その頃、長嶋茂雄が読売巨人軍に入団した、というニュースが田舎の村でも持ちきりだった。要は父親が「長嶋の入団支度金が300万円だったそうな」と、よく口にしていたのを覚えている。
 それに刺激されて「俺も野球をやって親父を喜ばせてやろう」と、中学に入るとすぐに野球部に入部している。しかし長続きしなかった。わずか1ヶ月で退部したのである。
 最初はボール拾いであるが、先輩が投げるボール手がひらに響き痛くて仕方がなかった。これは堪らんと、支度金300万円の夢などすっかり忘れて、さっさっさと辞めてしまったのである。

 次に入ったのがバスケット部。背が高くなると思ったからだった。部長に引き立てられて副部長にまでなったが、卒業まで続かずに辞めている。


「渡辺要物語 歌は心の港」第13回
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「渡辺要物語 歌は心の港」第12回  ふんどし歌手デビュー [半生記]

渡辺要3・ふんどし歌手.jpg◆歌手としてデビューした渡辺要は大阪にある吉本興業の舞台に立つことになる。1992年11月20日のことである。大阪・難波千日前のなんばグランド花月では秋吉英美、三門忠司と2人による紅白歌合戦が行われた。要と永井みゆきがゲストで、「若と貴」の1曲を歌った要は、3コーラス目で着ていた着物を脱いでまわし姿になったのである。ふんどし歌手のデビューであった。



渡辺要・ごんたの海.jpg











「ごんたの海」は
もず昌平による最初の作品だった

 まわし姿になると客席からは大歓声がわき起こった。石坂と要があらかじめ仕組んだことであったが、この作戦は大当たりであった。
 早速その日の打ち上げで劇場の支配人は、要がまわし姿で歌ったことを大絶賛してくれた。
 「リップサービスも若干あったのでしょうが、『あのふんどしで秋吉さんと三門さんの歌もふっ飛んでしまった』と、喜んでくれたんです」

 これがきっかけで要は請われて吉本興業に所属することになる。翌年1月には初めてグランド花月に1週間出演している。
 この頃の吉本のトップスターは横山やすし西川きよしであったが、かつての勢いは陰りを見せ始めていた。それでも中田カウス・ボタンたちと共に笑いを独占していた。

 そんな中で毎月、要は吉本の舞台に立ってふんどし歌手として歌っていたが「全然売れなかった」という。吉本時代に要は、人を楽しませるしゃべりの技を身につけ、司会業としての仕事も増やしていくのだが、この時はまだそんな域には達していなかったし、肝心の歌も聴く人の心を惹きつけるだけの力がなかったようである。

 素人のカラオケ大会では確かに「要の歌は上手い」とほめられていた。自分でも歌では人を唸らせるだけの自信はあった。ところが売れない。それは作品に恵まれないからだ、と思うようにもなっていた。

■鬼のもず

渡辺要・シーガルホテル.jpg 堺市内にある渡辺要の事務所には大阪在住の作詞家、もず唱平から届いた1枚の葉書が額縁に入れられて壁に掛けられている。その葉書には「人生を歌える歌手になりなさい」と書かれている。
要はもずとは、1997(平成9)年2月に「ごんたの海」(作詞・もず唱平、作曲・三山敏、編曲・桜庭伸幸)で初めて作品を書いてもらっている。

 すでに歌手としてデビューしていた要は、最初の「若と貴」(1992年)から数えると4枚のCDを出していたが、どれも売れなくて悩んでいた頃だった。新曲も「男意気」を出して以来、3年近く出していなかった。

 もずは「ごんたの海」を書いた97年に、要と同い年で歌手の鏡五郎と三門忠司、それに司会業の水谷ひろしの4人で〈ごんたの会〉というグループを結成している。その記者発表を吉本興業で行い、その席で瀬戸内海を舞台にした歌「ごんたの海」を発表している。歌うのはもちろん渡辺要であった。

渡辺要2.jpg 「お袋から届いた1通の手紙に書いてあった、頼りよりも無事がいい、という息子を思いやる言葉が印象的で、歌詞にもなっています」

 いい曲に出会えると必ず売れると自信があった要にとって、この楽曲を提供してもらったことは嬉しかった。ところがもずは「ごんたの海」は提供したもの、要を歌手として一から作り直そうとしたのである。

 もずはまず渡辺を盟友の作曲家三山敏に預けている。これが渡辺ともず、三山の3人による<歌手養成プロジェクトチーム>のスタートであった。要は毎日、三山の自宅へ歌の練習に通い始めた。
 しかしもずの指導は鬼のように厳しかった。
 2年ほど経ったある日、渡辺の歌を聴いていたもずは「あかん。長い間、何をしてたんや。話にならん。お前は上手く歌おうという気持ちが前に出過ぎや。カラオケを歌ってるのと違うで。そんなもんはいらん。ももええ、チームは解散や」と、すごい剣幕で渡辺を怒鳴りつけたのである。

 あまりの勢いにびっくりした要は思わず土下座をしていた。
 ただ「やり直します」というのが精一杯だった。
 もずは「飾らずに素で歌え」と言いたかったのだが、その時点ではまだ要にはその本意は解らなかった。
 それから何度か練習を聴いていたもずは「その歌や。なんでそれが出来んのや」と言ってくれるのだが、それまでの歌と何がどう違うのかまったく理解できなかった。

 要はすでに歌手デビューしていたし、れっきとした歌手であるという思いが自分の中にはあった。しかしもずの評価はそうではなかった。練習を重ねることで漸く「これで何とかデビューさせられるやろ」といったところまできた。
 そして1999(平成11)年3月、日本クラウンから「鴎(シーガル)ホテル / 相惚れ酒」(作詞・もず唱平、作曲・三山敏、編曲・小杉仁三)をリリースし、本当の意味での歌手渡辺要が誕生したのであった。

渡辺要.jpg
こんなオシャレな一面も見せてくれる(デビュー25周年記念ライブ)

 もず昌平が作詞をした、ちょっとおしゃれなタイトルの「鴎(シーガル)ホテル」は、中国・上海に実際にあるシーガルホテルで、現地の人たちとの親睦を深めるカラオケ大会を盛り込んで新曲発表会を開いている。
 「もず先生は、今までの要のイメージを一新したかったようです」

続く


「渡辺要物語 歌は心の港」第12回

「渡辺要物語 歌は心の港」第11回
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「渡辺要物語 歌は心の港」第11回  2足のわらじ [半生記]

渡辺要.jpg渡辺要の歌手デビュー曲は1992年の「若と貴」だったが、厳密には前年の91年に、自らの要鮨開業25年の記念に「鮨職一代」(作詞・石坂まさを、作曲・渡辺よしまさ)という歌でCDデビューしていた。第2弾のCDになる「若と貴」は、最初はセンチュリーレコード、そして石坂まさをが作ったシンカレコード、心歌ジャパンで出して、さらにバップ からも合計4レーベルで出している。いずれも自主制作盤であった。




渡辺要・若と貴デビュー曲.jpg





 香川県・滝宮神社でデビュー曲「若と貴」の発表会を行う前日、石坂がミニスカートの中国人歌手を伴って高松にやって来た。要を応援するために1曲歌わせるつもりだったのだろう。しかし当日、石坂はあまりにも彼女を相手にしないものだから「先生、わたしはどうなるの」と詰め寄る。すると石坂は「きみはもう帰りなさい。僕は渡辺要さんをデビューさせるんだから」と、どう考えても理不尽なことを言い出した。
 せっかく東京からはるばる高松まで来ているのに、その仕打ちの酷さに驚いた彼女は「わかりました帰ります」と怒って帰ってしまった。何ともすっきりとしない、発表会前の出来事であった。

 滝宮神社では石坂が司会をして、要が歌った。翌日のスポーツ新聞には「若貴兄弟の応援歌が出来た」と大きな見出しが踊った。しかし石坂は相撲協会の許諾を得ずに応援歌を作ったので、クレームがくるのではないか、と心配していた。大胆な反面、小心なところがあったようである。ところがそれは取り越し苦労に終わった。
 それならば、と意を強くした石坂は「よし行こう」と、今度は通天閣で発表会を開いた。それにも協会は何の反応も示さなかった。そこで石坂は「若と貴」を、ふたりの関取の応援歌として大々的に売り出すことを決めたのである。

 その「若と貴」は「9万枚売れた」といったスポーツ新聞の情報もあった。しかし要によると「そんなに売れていないが、レーベルの異なる4枚を合計すると、かなりの枚数が売れたのでは」と話している。
 しかしこの時期、要はCDを出す費用を捻出するためにせっせと鮨を握るといった、二足のわらじを履いていた。おまけに借金も増える一方だった。

渡辺要2.jpg しかも歌手デビューしたといっても、実態は嫌っていたマイナーな歌手と変わりはなかった。レコード店もそう簡単にはCDを置いてはくれない。そこで1人でカセットデッキを抱えてスナック回りを始めた。店のドアを開けて<マスター、1曲歌わせてください>と頭を下げるのである。もちろん簡単には歌わせてはくれない。
 何度となくやめようと思った。しかし、ここでやめては夢を実現させることはできなくなる。<いつかは売れる>といった、あてのない希望だけを持ち続けて、もう少し頑張ってみようと自分を奮い立たせては歌い続けた。

 「レコードメーカーの人たちが付いてくれている歌い手さんたちの新聞記事を見るたびに、うらやましくて仕方なかった」というのが正直なところだった。





 デビュー曲の「若と貴」は、若乃花・貴乃花応援歌であった。その第2弾として1993年にポニーキャニオンから出した「兄弟街道」(作詞・伊藤アキラ、作曲・渡辺よしまさ、編曲・前田俊明)は、宣伝マンなど5、6人が付いてくれてレコード店へあいさつ回りへ行くまでになっていたが、まだ鮨屋と歌手といったふたつの顔を持っていた。

 石坂まさを作詞家生活25周年記念作品として出した「男意気」(1994年)は原譲二(北島三郎のペンネーム)が作曲して、作詞は石坂まさをだった。これを出した時に東京のキー局のテレビ朝日が、要の追っかけ取材をしている。四国一と言われる鮨屋の経営者が歌手デビューしているというので話題になった。

 この時、石坂は要に「天下の北島さんが作曲をしてくれるのだから、鮨屋を取るか演歌を選ぶかどちらかにしろ」と、迫った。その迫力に押されるかのように要は「鮨屋を辞めます」と、運命の返事をまたもやしてしまったのである。
 このCDのカップリングは「鮨喰いねぇ鮨喰いねぇ」だった。

続く


「渡辺要物語 歌は心の港」第11回
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「渡辺要物語 歌は心の港」第10回   ミイラ取りがミイラに [半生記]

渡辺要.jpg◆1978(昭和53)年、高松の街にもミニスカートで踊って歌うデュオ、ピンクレディーの「UFO」が賑やかに響き渡っていた。レコード店の前では、子供たちがその振付を真似する光景も見られた。当時のオーディション番組「スター誕生」出演をきっかけに1976年にデビューした彼女たちは、デビュー・シングル「ペッパー警部」の売上が60万枚を記録。その年の第18回日本レコード大賞新人賞を獲得していた。

 「UFO」は彼女たちの第6弾シングルとして1977年12月に発売され、155万枚を超す大ヒットとなった。78年末には第20回日本レコード大賞を受賞するほどであった。







渡辺要

 同じ年、瀬戸内の直島という小さな島の三菱金属鉱業直島精錬所に勤める、当時46歳の村木賢吉が歌っていた「おやじの海」もまた、静かなブームを巻き起こしていた。ピンクレディーのような派手さはないが、翌79年には140万枚の大ヒットとなっている。この歌は同じ会社に勤めながら作詞作曲活動をしていた佐義達夫が書いて、72年に村木に歌わせたものだった。最初はわずか500枚の自主制作盤だったというが、有線放送で全国に広まっていった。

 この佐義が渡辺要のプロ歌手への道を拓いていくことになる。

 佐義が審査員をするカラオケ大会で優勝したり、準優勝するなどしていた要は、地元の歌の世界でも少しづつ名前を知られるようになっていた。
 1980年代になっていた。そんなある日、要を要鮨に訪ねた佐義は「どうしても歌手になってほしい」と頼みこんでいた。「おやじの海」の村木の第2弾となる歌手を探しているというのである。
まだ要にはそんな気はまったくなかった。
 その時も「男前でもない、それほど上手くもない自分が歌手になっても売れないことはわかっていたし、第一みじめになるのが嫌だった」と断っている。
 それでも佐義は「僕は渡辺さんの声が好きなんです」と粘る。

讃岐の山.jpg
渡辺要を育てた讃岐

 取り敢えずカラオケで歌った音源を数曲、後日、送ってそれで判断してもらうことにして、その日は佐義は直島へ帰って行った。
 数日して佐義から届いた返事の手紙には「高音のクリスタルな声が大変気に入ったので、是非とも歌ってほしい」と、再び熱烈なプロポーズの言葉が並んでいた。数日して今度は、ほろ酔い演歌「虎落笛」という楽曲が届いた。

 それでも要の固辞する姿勢に変わりなく「この歌ならば日本コロムビアの歌手、わかばちどりに歌わせたらどうか」と彼女を紹介することになった。佐義も諦めたのか、彼女と交渉してレコード化にこぎつける。ところがわかばが歌ったそれは「あまり売れなかったようです」(渡辺要)と、佐義の第2のおやじの海の思惑は外れてしまった。

中学時代の憧れの人とツーショット、2018年6月の高松公演.jpg
中学時代の憧れの女性とツーショット(2018年6月の高松公演で)

 今度はやはり地元で作曲活動をする渡辺よしまさから呼び出しを受けた。訪ねてみると、そこには東京から作詞家の石坂まさをが来ており、同席していたのである。
 唐突なほどに石坂から「歌ってみて」と言われ、その勢いに押されるままに1曲歌うと、石坂は立ち上がり「君が歌手にならないでどうするんだ。鮨屋はいつでも出来るんだ。歌手になりなさい」と、あらんばかりの声で勧められた。
 またかと思ったものの、今度は要の心は少し揺るぎ始めた。
 当時、紅白歌合戦には演歌・歌謡曲で男性歌手11人が出場していた。
 石坂は「君が歌手になっったら紅白に出場出来る」とまで言い出した。しかもその11人の中でも十分に伍して歌えるとまでいう。

 要には鮨屋で大成しようといった夢があった。しかもそうしたうまい話に乗って騙された人たちを過去に何人も見てきているから、自然と用心深くなっていた。
 そんな要に石坂は「君は3年経ったら必ず紅白に出られるよ」と、追い打ちをかける。
それには要もつい「えっ!本当ですか」と、聞き返してしまった。石坂は「絶対に君の歌は間違いない」と、さらに強い言葉で太鼓判を押してくる。

 今回は今までのようなマイナーな歌の世界での話ではない。一流歌手と対等に競える、というのである。熱心な勧誘に要の心には迷いが出てきた。

レギュラー司会者を務める歌う王冠ライブ.jpg
レギュラー司会者を務める「歌う王冠ライブ」に出演する渡辺要

 東京に帰った石坂は、その後も要に頻繁に電話を寄越した。
 「今ね、マージャンをしているんだがね、高松にサブちゃんの歌を歌っている奴がいる、と話したら興味を持ってくれた人がいるので、今度高松へ連れて行くよ」

 その頃、要は素人歌手として高松のキャバレーでよく北島三郎の歌を歌っていた。
 すると本当に石坂が大手プロダクションの人間を伴って、そこへ現れたのである。
 それをきっかけに石坂は何度も足を運んでおり、その都度、東京から引き連れてきた人たちに「いい声だろう。応援してね」を繰り返すのだったが、要はそれでも決して首を縦には振らなかった。

 このままでは石坂に対しても失礼になる、はっきりと自分の考えを示して断らなくては、と考えた要は渡辺よしまさを訪ねている。義を重んじる要には、うやむやにしておけなかったのである。

若と貴.jpg ところが訪ねるや否や、渡辺まさよしは「これは絶対売れるから一度、聴いてみて」と、歌い始めた。
 ♪ やぐら太鼓が隅田の川に 〜
 「これがいい歌だったんですよ。思わず先生、これいいね。俺、やるわ」
 あれほどかたくなに断り続けていたのに、要はいとも簡単に言ってしまった。

 要はすぐに何事にも感動してしまう。
 リコー三愛グループの創始者、市村清が銀座の土地は買収に難航していた時、その土地の地権者が大雪の中を断りに本社ビルまで出向くと、濡れた足元を見た女性事務員が自分のスリッパを履かせて社長室へ案内したことに、地権者は感激して土地を売る決心をするといったエピソードに倣い、この日は手土産を下げてわざわざ出向いたのである。

 なんと結果もエピソード通りになり、ミイラ取りがミイラになってしまった訳である。その時に聴かされた歌がデビュー曲「若と貴」になる。
 1992(平成4)年5月、毎年奉納相撲が行われてい香川県綾川町の滝宮神社の土俵で新曲発表をすることになった。

続く

「渡辺要物語 歌は心の港」第10回
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「渡辺要物語 歌は心の港」第9回
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「渡辺要物語 歌は心の港」第8回
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「渡辺要物語 歌は心の港」第7回
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「渡辺要物語 歌は心の港」第5回 四国1番の鮨店になる
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「渡辺要物語 歌は心の港」 第4回 名物穴子鮨
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「渡辺要物語 歌は心の港」 第3回 1番店へ
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「渡辺要物語 歌は心の港」 第2回 「要鮨」開店
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「渡辺要物語 歌は心の港」 第1回 大阪・法善寺横丁の寿司屋で修業
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「渡辺要物語 歌は心の港」  プロローグ
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「渡辺要物語 歌は心の港」第9回   歌う鮨職人に [半生記]

◆高松市のライオン通りで鮨店「要鮨」を経営していた渡辺要が、若花田・貴花田の応援歌「若と貴」で歌手デビューするのは1992(平成4)年5月であった。無一文に近い状態から、四国でも名の知れた鮨店にまで育てた要には好きな歌を歌うといった趣味があった。仕事の合間を縫ってはキャバレーで素人歌手の真似ごともしていたが、歌手になろうなんて思ってもいなかったのであるが、周りがそれを許さなかった。

元・要鮨の店舗前に立つ渡辺要.jpg
かつての要鮨の店前に立つ渡辺要


 要鮨があったライオン通りには今でもたくさんの飲食店が建ち並び、高松屈指の商店街である。当時、渡辺はその商店街の会長をするなど、店の拡大と共に町の世話役を任されるようになっていた。
 歌うことは昔から好きだったこともあって、県内で開かれるカラオケ大会に出場していた。どこの会場でも優勝するか準優勝といった具合で、カラオケ荒らしとして知られるようになっていた。店が順調に拡大していたこともあってか、勧められるままにキャバレーのステージに<歌手>として立つことも増えて、<歌う鮨職人>としても名前を売っていた。

 と言っても渡辺にとって歌はあくまでも趣味。歌手になるなんて微塵も考えたことはなかった。ただ鮨店での大成を目標としていたのだった。

高松市ライオン通り.jpg
今も昔も高松屈指の賑わいを見せるライオン通り

 そんな時、地元の作曲家・渡辺よしまさが要を訪ねてくる。
 頻繁にカラオケ大会に出場していた要の元には、大会で審査員をしている音楽関係者たちから「レコードを出さないか」といった誘いがたくさん寄せられていた。歌は上手い要であったが、本人にはその気は毛頭なかった。

 その頃のことを渡辺は
 「カラオケ大会では上手いといって持て囃されているけれど、自分では大して歌が上手い訳でもないと思っていたし、楽器も我流でギターを少々弾く程度で、音楽的な要素は持ち合わせていなかったので断り続けていました。それに周りには、甘い言葉に誘われて騙された人たちの話をよくみみにしていたから、注意深くなっていました」
 と振り返っている。

 要にとってこの時、レコードを出すことを勧めた渡辺も注意すべき1人に映ったのだが、この渡辺こそ、デビュー曲となる「若と貴」の作曲をすることになる。しかしそれにはもう少し時間を要する。

要鮨の跡.jpg
ライオン通りの角地に建つ要鮨の店舗 今は別の鮨店として営業している

 ライオン通りにあった要鮨には連日、地元の名士や高松に支店を置く企業の支店長たちで賑わっていた。
 そのひとりに歌手のわかばちどりがいた。香川県綾川市の出身で、日本コロムビアのオーディション四国大会で優勝して歌手デビューへの切符を手にし、市川昭介の門下生となり、1967(昭和42)年に日本コロムビアから「拝啓男ごころ様」でデビューした地元自慢の歌手であった。

 わかばとは年齢も一緒だった要は、彼女が新曲を出すたびに何十枚とまとめて買っては応援していたという。
 「畠山みどり、都はるみとともにコロムビア三姉妹として売り出していたし、歌は上手い。しかもべっぴんさんやし、香川県から歌手が誕生したのは笠置シズ子以来や、と地元では大騒ぎしていましたね」

 彼女の叔父は歯科医で要鮨の常連でもあった。祝い事や法事があると、料理は要鮨が一手に引き受けるほどの付き合いだったという。
 最初わかばは、その叔父に連れられて店に来ていた。わかばと一緒によく連れられて来たのが、やはり同じ姪にあたる、現在のマネージャーである岩鍋希光子であった。

渡辺要.jpg
テレビ番組「歌に恋して」の収録で「母は今でもこころの港」歌う渡辺要

 そのうちにわかばは姉の看病もあって、東京から高松に帰ってくることが多くなった。そのたびに1人で店に立ち寄るようにもなった。そのうち要は、活動拠点の東京を留守にすることが多くなるわかばに、高松での仕事を紹介するようになったが、このわかばの存在も、彼の歌手デビューにも大きく影響してくるのである。



「渡辺要物語 歌は心の港」第9回
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