日高正人(ホリデージャパン)、半生を歌うような「下北沢挽歌」 同世代の人たちの旗印に [インタビュー]
◆日高正人は、歌手歴40年の節目にレコード会社を移籍した。その第1弾となったのが「下北沢挽歌」(作詞・たきのえいじ、作曲・杉本眞人、編曲・矢野立美)だ。それは67歳になった今、自ら歩んできた過去をそっと振り返っているような歌だ。
鹿児島県屋久島生まれの27歳の日高正仁(本名)が、日高隼人の名前で旧ミノルホンレコードから「鹿児島の雨にめれて」でデビューしたのは1970(昭和45)年だった。現在の正人に変わったのは、76年に出した6作目の「屋久島哀歌」からである。
2年後には南こうせつに誘われてクラウンレコードに移っている。その後もポニーキャニオン、ガウスエンタテインメント、徳間ジャパンコミュニケーションズと渡り歩き、今年9月にホリデージャパンに移籍した。
新曲の「下北沢挽歌」は、新しいスタートを飾るのにふさわしい歌である。
♪人生は各駅停車 手さぐりばかりしたけれど~
♪人生は日替わり舞台 泣いてもみたり 笑ったり~
「下北沢挽歌」は杉本眞人らしい詞で綴られている。日高の歌はそれを40年、いや60年という長い年月の重みを感じさせてくれる。
これは、彼にとって4年ぶりの新曲である。
前作の「やじろべい」は、団塊の世代へ向けた応援歌と言われている。デビュー当初はアイドル風、そしてフォーク・ロックといった方向へと変わっている。その後、少しずつ曲調が変わってきた。
「もう一度、ヒットを出し、同世代の人たちの旗印になりたいですね」
そんな思いを現実のものへとしてくれるパワーを感じさせてくれている。
◆日本テレビの全日本歌謡選手権(昭和47年)で10週勝ち抜くなど、日高正人にまつわるエピソードは数多い。
中でも伝説的に語り継がれているのは、1983(昭和58)年の日本武道館ワンマンコンサートに1万2000人をも集め、<無名の歌手が武道館を満員にした>と、一躍スーパースターに躍り出たことであろう。
それを実現させたのは、「夢を諦めなかったから」(日高)だという。その思いが「スタッフなど周りの人たちが一緒になって夢を背負ってくれた」とも。
鹿児島のMBC南日本放送ラジオで毎週日曜日午後9時からの「日高正人の銀座ナマナマ天文館」は、もう18年間も続く長寿番組になっているのも、そうした彼の人柄が電波で伝わっているのだろう。
気さくな性格も、多くの人を引き付けている。
人生の応援歌とも言われる前作の「やじろべい」を、ラジオで聴いたという山形県の女性から「山形へ来て、父のために歌ってほしい」とメールをもらったことがあった。
求めに気軽に応じた日高は、山形へ出かけた。会場の居酒屋では、100人ほどの観客と父親を前に<サプライズ歌唱>したという。
また、2001年に出した「達磨」では、歌を聴いた神戸刑務所の受刑者が更生を誓ったと言われている。
<有名になりたい、目立ちたい>と目指した歌手だったが、「歌のパワーを感じますね。歌っていて良かったと思いますよ」と、日高は感慨深そうだ。
デビュー曲の「鹿児島の雨にめれて」は、前年にインディーズで発売したものと同名の曲だった
鹿児島から上京してすぐ、引ったくりに遭って無一文になった。この時、生活費を稼ぐために飯場に入って建設現場で働いている。今の格闘家と見まごうほどの体格は、この時に作られたものだという。
そうした生きる逞しさに共鳴したのか、同じ鹿児島県出身でプロボクサーの淵上誠は、日高の「やじろべい」を入場曲に使い続けているという。
日高は屋久島で生まれた。しかし両親は、子どもの教育を考えて、日高が就学年齢になる前に鹿児島市内へ引っ越ししている。
88歳になるその母親は、30年前から大阪府高槻市に住んでいるという。息子に会うために、片道7時間の直行バスで神奈川県の日高の自宅を訪ねているという。「今年は1人で5回も来ましたよ」と日高は目を細めていた。
その母親への感謝の気持ちを込めて歌ったのが、カップリングの「母・・・~歳月の河を越えて~」(作詞・たきのえいじ、作曲・杉本眞人、編曲・矢野立美)である。
[日高正人公式ホームページ]
http://www.hidaka-masato.com/
鹿児島県屋久島生まれの27歳の日高正仁(本名)が、日高隼人の名前で旧ミノルホンレコードから「鹿児島の雨にめれて」でデビューしたのは1970(昭和45)年だった。現在の正人に変わったのは、76年に出した6作目の「屋久島哀歌」からである。
2年後には南こうせつに誘われてクラウンレコードに移っている。その後もポニーキャニオン、ガウスエンタテインメント、徳間ジャパンコミュニケーションズと渡り歩き、今年9月にホリデージャパンに移籍した。
新曲の「下北沢挽歌」は、新しいスタートを飾るのにふさわしい歌である。
♪人生は各駅停車 手さぐりばかりしたけれど~
♪人生は日替わり舞台 泣いてもみたり 笑ったり~
「下北沢挽歌」は杉本眞人らしい詞で綴られている。日高の歌はそれを40年、いや60年という長い年月の重みを感じさせてくれる。
これは、彼にとって4年ぶりの新曲である。
前作の「やじろべい」は、団塊の世代へ向けた応援歌と言われている。デビュー当初はアイドル風、そしてフォーク・ロックといった方向へと変わっている。その後、少しずつ曲調が変わってきた。
「もう一度、ヒットを出し、同世代の人たちの旗印になりたいですね」
そんな思いを現実のものへとしてくれるパワーを感じさせてくれている。
◆日本テレビの全日本歌謡選手権(昭和47年)で10週勝ち抜くなど、日高正人にまつわるエピソードは数多い。
中でも伝説的に語り継がれているのは、1983(昭和58)年の日本武道館ワンマンコンサートに1万2000人をも集め、<無名の歌手が武道館を満員にした>と、一躍スーパースターに躍り出たことであろう。
それを実現させたのは、「夢を諦めなかったから」(日高)だという。その思いが「スタッフなど周りの人たちが一緒になって夢を背負ってくれた」とも。
鹿児島のMBC南日本放送ラジオで毎週日曜日午後9時からの「日高正人の銀座ナマナマ天文館」は、もう18年間も続く長寿番組になっているのも、そうした彼の人柄が電波で伝わっているのだろう。
気さくな性格も、多くの人を引き付けている。
人生の応援歌とも言われる前作の「やじろべい」を、ラジオで聴いたという山形県の女性から「山形へ来て、父のために歌ってほしい」とメールをもらったことがあった。
求めに気軽に応じた日高は、山形へ出かけた。会場の居酒屋では、100人ほどの観客と父親を前に<サプライズ歌唱>したという。
また、2001年に出した「達磨」では、歌を聴いた神戸刑務所の受刑者が更生を誓ったと言われている。
<有名になりたい、目立ちたい>と目指した歌手だったが、「歌のパワーを感じますね。歌っていて良かったと思いますよ」と、日高は感慨深そうだ。
デビュー曲の「鹿児島の雨にめれて」は、前年にインディーズで発売したものと同名の曲だった
鹿児島から上京してすぐ、引ったくりに遭って無一文になった。この時、生活費を稼ぐために飯場に入って建設現場で働いている。今の格闘家と見まごうほどの体格は、この時に作られたものだという。
そうした生きる逞しさに共鳴したのか、同じ鹿児島県出身でプロボクサーの淵上誠は、日高の「やじろべい」を入場曲に使い続けているという。
日高は屋久島で生まれた。しかし両親は、子どもの教育を考えて、日高が就学年齢になる前に鹿児島市内へ引っ越ししている。
88歳になるその母親は、30年前から大阪府高槻市に住んでいるという。息子に会うために、片道7時間の直行バスで神奈川県の日高の自宅を訪ねているという。「今年は1人で5回も来ましたよ」と日高は目を細めていた。
その母親への感謝の気持ちを込めて歌ったのが、カップリングの「母・・・~歳月の河を越えて~」(作詞・たきのえいじ、作曲・杉本眞人、編曲・矢野立美)である。
[日高正人公式ホームページ]
http://www.hidaka-masato.com/
すごく勉強になります。
by take (2010-12-13 16:42)