SSブログ

沢田正人(ホリデージャパン)  ホリデー移籍第1弾「ヴィーナスの企み」 昭和のポップス歌謡を彷彿  3年余で1000ヵ所キャンペーンも達成 [インタビュー]

沢田正人1.jpg沢田正人の歌手デビューは27歳10ヶ月だった。演歌好きな仕事仲間に連れられて初めて行ったカラオケ喫茶店で演歌・歌謡曲を歌い、スターになったような快感を味わったのが歌手への第一歩だった。歌手になるにはかなりの回り道をした。2016年5月に出した4枚目のシングル「ヴィーナスの企み」はホリデージャパン移籍第1弾。今までのムード歌謡っぽい楽曲から、かつての沢田研二や西城秀樹など昭和のポップス歌謡に路線を変更している。去年10月にはキャンペーン1000ヶ所の目標をクリアするなど意欲的に活動を展開し、男性、女性の幅広い層から支持されている。








 沢田正人の連日連夜に及ぶキャンペーンには誰もが驚かされる。その模様は自身のFacebookで写真もふんだんに使って詳しくレポートしている。
 レコード店も少なくなった今、新人歌手が顔と歌を覚えてもらうには、歌好きが集まるカラオケ喫茶店で歌うのが効果的。彼はデビューした時、目標を2つ立てている。ひとつは3年以内に1000ヶ所でキャンペーンをすること。2つ目は47都道府県をくまなく廻ることであった。1000ヶ所を成し遂げるには3年2ヶ月かかった。全国制覇も達成した。

沢田正人・ヴィーナスの企み.jpg かの弁慶が目指した刀集めも1000本が目標だったという。掲げるのは簡単だが行うのは容易くはない。とりわけ怠け者の記者には想像を絶する数字である。どのようにして成し遂げたのか。
 「まず地区を選ぶとインターネットで検索してピックアップします。一軒ずつ電話をかけますが、大体は断られますね。少しでも関心を持ってもらった所には資料を送らせてもらって、その後電話で再度お願いします。キャンペーンをさせていただけるのは、5軒中1、2軒でしょうか」
 まさに千里の道も一歩からである。


 軒数が増えていくと紹介の数珠つなぎで広がるし、地域ごとにプロモーターのように動いてくれる人たちもできてきた。「いろんな人に会えるしキャンペーンは楽しい」と、旅行好きの沢田は笑って答えるが、それにしても気の遠くなるような話である。

 デビュー曲は2012年に徳間ジャパンコミュニケーションズから出した「薔薇の涙」だった。徳間では3作を出している。いずれも師匠の樋口義高氏の作曲である。今回の新曲「ヴィーナスの企み」は作詞が伊藤美和、作曲は藤竜之介、編曲猪股義周。
 「今までキャンペーンで沢田研二さんや西城秀樹さんのカバーをすることが多かったんですが、会場は盛り上がって、君にピッタリな歌や、と言ってもらっていました。移籍に当たって70代、80代の人たちにも聴いてもらって元気になってもらえるような、そんなノリのいい歌を歌いたいと希望しました」

沢田正人.jpg

 もともとロックバンドのヴォーカリストが志望だった沢田は、滋賀県の高校を卒業すると就職せずにアルバイトの道を選んだ。しかし夢も仕事もうまくいかずに、ついに東京にいる先輩を頼って家出をする。この時は実家へ連れ戻されるのだが、歌手を目指したいと両親と話しあって再び上京した。
 アルバイトをしながらオーディションを受けるが、なかなか願いはかなわず、失意のどん底に突き落とされる。そんな時に見つけたのが社員5、6人の小さなコンピューター関連の会社だった。そこでホームページを作るWebデザイナーとして技能を身に付けるのだが、それが今も自分のホームページ制作に役立っている。

 その後、タイへ渡りタイ古式マッサージの資格を取得している。そんな時に友人から誘われたカラオケ喫茶店で、演歌・歌謡曲の魅力に取り憑かれてしまった。カラオケ喫茶は、ポップスしか知らなかった彼にはまったくの別世界であったが、誘われるままにカラオケ大会にも出た。そこで運良く入賞し、作曲家の樋口義高氏に誘われてレッスンに通い始め、1年半後には、ようやく歌手になることができた。



 回り道だったが、辿りついた歌手の座に満足することなく、今も全国を駆け巡っている沢田は「歌はまだノリで歌っているだけの下手くそですが、聴き手に歌詞を一言ひと言を伝えられるような歌い手へとステップアップさせてみせます」と、話している。


[沢田正人 オフィシャルサイト]
http://www.sawadamasato.net/





nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:音楽

nice! 6

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。