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橋をめぐって2万3400歩 〜 大阪八百八橋めぐり [イベント]

◆記憶に残っている最初の山登りは小学4、5年の頃であったろうか。京都・丹後半島にある権現山(約600メートル)に父と一緒に登った。草をかき分けるように、先を行く父をひたすら追って這うように登った記憶がある。


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写真・山は延期して橋を巡った

 2023年10月1日は50年ぶりに比叡山に登る計画を立てていた。ところが前夜から明け方にかけての激しい雨のために予定を変更せざるを得なくなった。

 この日の比叡山登山は中止にしたが、メンバー5人のうち3人が大阪・淀屋橋のカフェに集まり、急きょ計画を練り直して、大阪市内にある橋をめぐることにした。

 淀川河口に開けた大阪の町は古くから川を上り下りする船による水運が盛んで、それがなにわの経済を支えてきた。江戸時代には天下の台所とも呼ばれる所以ともなった。
 その川には多くの橋がかかり、たくさんの人々が往き来して、様々な物語を生み出してきた。

 出発はなにわの三大橋とも言われる淀屋橋。江戸時代の豪商淀屋が米を運ぶために架けたのが淀屋橋である。そこを起点にまずは土佐堀通りを東へ向かった。

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写真・土佐堀通りを歩く

 すこし歩くと橋の向こう正面に大阪市中央公会堂が見える栴檀(せんだん)木橋がある。これは、江戸時代に中之島にあった蔵屋敷へ行き来するために架けられたもので、橋筋に栴檀の大木があったところからその名が付けられたという。

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写真・栴檀木橋

 次は難波橋。天神橋と同じ寛文元(1661)年に公儀橋になったそうだが、当時、この付近は行楽地で夕涼み、舟遊び、花火見物などの人々で賑わっていたようである。

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写真・難波橋

 次に訪ねたのは葭屋橋(よしやばし)。東横堀川の北端、大川からの分流点に架けられている。
 蟹島遊廓への通路として天明年間(18世紀後期)に架設されたものである。料理屋、旅館などが多く建てられ発展したといわれる。

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写真・葭屋橋

 最近では歌手野上こうじさんの歌でも知られる天神橋は、豊臣秀吉の頃に架けられており、天満宮が管理していたことから、この名前が付けられた。なにわの三大橋のひとつである。

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写真・天神橋

 さらに西へと進むと天満橋がある。初めて架けられたのは、やはり豊臣時代である。明治18年の淀川大洪水で流されるまで何度も架け替えられている。
 「歌を歩く」ではかつて、歌手松浦ゆみさんに「天満橋から」(吉永小百合)を橋の畔で歌ってもらっている。

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写真・天満橋
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写真・八軒屋船宿 旧八軒屋浜船着場

 しばらく大川沿いに河川敷を歩いていくと桜宮橋がある。大川に架けられた国道1号(曽根崎通)の橋で、銀色の橋であることから「銀橋」とも呼ばれている。

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写真・桜宮橋(銀橋)

 橋の畔には造幣局がある。国道1号をはさんで大川沿いにあるのが、国の重要文化財に指定されている泉布観。大阪府に現存する最古の洋風建築であるという。

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写真・泉布観
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写真・旧明治天皇記念館正面玄関

 1871(明治4)年に造幣寮(現在の造幣局)の応接所として建設された。泉布とは貨幣を意味し、観は館のことである。明治天皇は3度も訪れたという。
 その隣に建っているのが旧明治天皇記念館正面玄関。この日は結婚式が行われていた。

 大川沿いをさらに北へ行く。見えてきたのが源八(げんぱち)橋。1936(昭和 11)年に橋が架けられるまでは、天満川崎と対岸の中野の両岸は源八の渡しで結ばれていた。
 江戸時代は天満側には大坂城代配下の役人たちが住み、対岸は農村風景が広がっていたという。

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写真・源八橋
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写真・源八橋から見る大阪城
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写真・隣の鉄橋には大阪環状線が走る

 今も昔も地名にも残るように桜の名所である。
 大川左岸には在阪各大学漕艇部の漕艇庫が立ち並び、練習にはげむ学生の姿を見ることが出来る。

 今回の橋巡りはここまで。京橋まで足を伸ばして居酒屋で昼食を摂り、この日の第2ラウンドである、京橋から京都・伏見まで続く「京かいどう」を、大阪・千林まで歩いた。これは後日、レポート、する。

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写真・京橋で焼きサバ定食

 この日、歩いた距離は15.2キロ、2万3400歩であった。








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