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渡辺要(日本クラウン) ロングインタビュー 出足好調な新曲「人生男節」 12月には「BS日本のうた」に初出演、別離の子どもに晴れ姿を観てもらいたい [インタビュー]

渡辺要2.jpgカナメちゃ~ん!

 店頭ライブの会場で、ファンから熱い声援が飛ぶ。渡辺要 = 写真・左 = のファンは着実に増えているようだ。

 「男はヤル気年齢です」を信条に、19年間歌い続けてきた。「この歳になってCDを出して頂けるのはありがたいこと」と、周りの人たちに感謝の気持ちを忘れない。






 そんな彼を応援する歌手仲間も少なくない。その1人である中村美律子からは、2010年7月7日にリリースされた渡辺の新曲「人生男節」に合わせて、着物を3着もプレゼントされたという。ジャケット写真に映っている着物が、その1着である。新曲はチャート誌のランキングでは、早々にベスト10入りするなど、出足も好調だ。


渡辺要3.jpg 渡辺が歌手として水面に顔を出したは、ついこの前である。
 平成19年5月リリースの「大間崎漁歌/望郷みれん」(作詩・水木れいじ、作曲・岡千秋、編曲・伊戸のりお)が、それだった。その曲で日本クラウンヒット賞と敢闘賞を受賞した時、東京で開かれた授賞式で渡辺は、同じ日本クラウンの大先輩である北島三郎から「カナメ、よくここまで来たな」と、天にも舞い上がるような賛辞をもらった。

 渡辺にとっては涙が出る想いだった。1994(平成6)年に出した「男意気」(作詞・石坂まさを、編曲・大場吉信)の作曲を担当したのが北島こと原譲二だったのが縁で、以来、北島には気に留めてもらっていたという。

 「大間崎漁歌」は作詩は水木れいじ、作曲は岡千秋、編曲が伊戸のりおである。これの制作に先駆けて千葉市の料理店「魚喜」の2階に、渡辺を交えて水木、岡などが集まって、曲作りの方針や曲の内容について夜明けまで語りあっている。



 「当時はすでに女房、子どもとも別れていて、子どもにはいつかきっとメジャーになって大ステージに立つ姿を観てもらいたいこと、歌手を目指しての今までの道程など、自分のすべてをさらけ出しました」
 その話を聞いた岡たちは、話に心打たれるものがあったのか「渾身の思いで、素晴らしい歌を作ってやる」と言ったという。
 そんな力が込められた「大間崎漁歌」は売れた。これが渡辺を浮上させる大きな転機になった。


◆中学を卒業後、生まれ故郷の香川県高松市を離れて、名古屋で就職した。看板屋、布団店、ミシン店、そして寿司店などといろんな職業を転々とした。10代後半からは、大阪の阪急電鉄十三駅前の三和銀行(現在のUFJ東京三菱銀行十三支店)前にあった寿司店ラッキーで1年半ほど修業している。

 地元高松で寿司店「要鮨」を開業したのは20歳の時だった。大学に通っていた従兄弟に負けたくないという思いが、若くして独立するパワーになったという。
 ピーク時には7店舗を構え、寿司職人として天皇・皇后両陛下が香川県に寿司献上したり、高松まつりのイベントとして236mの長い巻き寿司を巻いたといった、華やかな経験もある。

 そのま続けていたら良かったのかもしれない。
 その平穏な日々が壊れる時は突然やって来た。
 いつものように寿司を握っていると、ある時、東京から来たという1人の客がいた。
作詞家で作曲家でもある石坂まさをである。渡辺の歌を聴いて「素晴らしい素質を持っている。歌手になるべきだ」と熱っぽく語ったという。
 その石坂の一言が、歌手へと突き進むきっかけであった。


渡辺要4.jpg とは言うものの、歌手などで食べていけるはずがない、といった思いもあった。成功している寿司店を捨ててまでやるべきことか、と思い悩んだ。
 歌手へのあこがれはあったが、本格的に歌の勉強をしたこともなく、歌手になる術も知らなかった。
 結局は石坂の強い勧めもあって、92(平成4)年5月、関取若花田と貴花田の応援歌「若と貴」(作詞・石坂まさを、作曲・渡辺よしまさ、編曲・伊藤雪彦)を作ってもらってデビューした。


 しかし、そこからが大変だった。CDを出すために寿司を握るといった時代がしばらく続く。出したCDも、そう簡単にはレコード店は置いてくれなかった。もちろん訳も分からない歌手にレコード会社も販売協力はしてくれない。借金も増える一方だった。
 素人のカラオケ大会で「要の歌は上手い」とほめられていたし、自分でも<大会でチャンピオンになったのだし、歌が下手だとは思っていなかった。上手いけれど売れないのは作品に恵まれないからだ>と、思いこんでいたようだ。


 CDが売れなくても<いつかは売れる>という、あてのない希望を持つことになる。しかも<デビューしたらテレビにも出られる、紅白歌合戦も夢ではなくなる>といった、現実離れした夢も描いていた。

 レコード店で売れないから、1人でカセットデッキを抱えてスナック回りを始めた。店のドアを開けて<マスター、1曲歌わせてください>と頼み込む。ここでも簡単に歌わせてくれることはなかった。
 何度となくやめようと思った。しかし、ここでやめては夢を実現させることはできなくなる。もう少し頑張ってみよう<いつかは売れる>と歌い続けた。

 しかし「売ってやるからとか、カラオケに入れてやるから、テレビに出演させてやる―などとすり寄って来ては金を持っていく人たちが、次々と現れてきた」から、弱り目に祟り目とはまさにこのことだ。

 94(平成6)年1月には、吉本興業の演歌歌手第1号になっているものの、事態は決して良くはならなかった。歌う機会を得て、会場でCDの即売をするが、誰も買いに来てくれない。「ずっと1人立っているのが辛くて、早く売れないかな、と思ってはお客さんの顔を見ていた」
 でも、そんな物欲しそうな顔をした歌手のところへは、待てど暮らせどお客は誰一人近づこうとはしない。

 そこから始めたのが歌を聴いてくれた人など、出会った1人ひとりから名刺をもらうことだった。「ファンをつかみたい」という思いからだった。名刺くれた人には必ず令状を書いた。その名刺は今、数千枚にもなっているという。そして今なお、礼状を出すことを心がけている。


◆渡辺の自宅には今、作詞家もず唱平から送られた1枚のはがきが、額縁に入って壁に掛けられているという。「人生を歌える歌手になりなさい」と書かれている。
 もずとの出会いは、97(平成9)年2月に、渡辺が「ごんたの海」(作詞・もず唱平、作曲・三山敏、編曲・桜庭伸幸)を出したのがきっかけだった。

 それが渡辺要を歌手にした、と言ってもいいだろう。
 もずは渡辺を盟友の作曲家三山敏に預けている。これが、もず、三山、渡辺の3人による<歌手養成プロジェクトチーム>のスタートであった。


渡辺要1.jpg
念願のNHKテレビ出演が決まった渡辺要


 毎日、三山の自宅へ歌の練習に通う日が続いた。
 2年ほど経ったある日、渡辺の歌を聴いたもずは「あかん。長い間、何をしてたんや。話にならん。お前は上手く歌おうという気持ちが前に出過ぎや。カラオケを歌ってるのと違うで。そんなもんはいらん。ももええ、チームは解散や」と、すごい剣幕で渡辺を怒鳴りつけた。

 思わず土下座して<やり直します>と言った渡辺だが、もずが言う「素で歌え」という意味が、まだわからなかったという。
 それから何度か練習を聴いていたもずは「その歌や。なんでそれができんのや」と、突然言い放った。そうは言われるものの、何が違うのかもその時は解らなかったという。

 さらに練習を重ねることで、もずの評価は「これで何とかデビューさせられるやろ」といったところまで上がっていった。そして99(平成11)年3月、日本クラウンから出した6曲目の「鴎(シーガル)ホテル/相惚れ酒」(作詞・もず唱平、作曲・三山敏、編曲・小杉仁三)につながる。

 「歌は決して上手く歌おうなどと気負っていては、聴く人に歌の世界を伝えることはできない、そんなことだったんでしょう」
 渡辺は、今、ようやく歌手が何なのかをつかんだようだ。
 「大間崎漁歌」、前作「女のちぎり」と2作連続で日本クラウンヒット賞を獲得したのも、そんな修業があったからこそなのだろう。


◆12月5日には念願のNHKテレビの歌番組「BS日本のうた」への出演が決まっている。竜鉄也の「奥飛騨慕情」を歌うという。
 「この晴れ姿を、どこかで子どもが観てくれていたら」という渡辺の目は、涙でうるんでいたようだった。



[渡辺要公式ホームページ]
http://www.kaname8739.com/




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