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昭和を代表する歌手、二葉あき子さん死去  「フランチェスカの鐘」などが大ヒット [訃報]

二葉あきこ.jpg◆1948(昭和23)年の大ヒット曲「フランチェスカの鐘」などで知られた昭和前半の歌謡界を代表する歌手、二葉あき子さん(ふたば・あきこ=本名・加藤芳江 かとうよしえ=日本コロムビア所属歌手)が、2011年8月16日、午前3時30分 急性心不全で広島市内の養護施設で死去した。96歳だった。
 告別式は18日、斎場で親族のみで行う。喪主は孫の加藤英紀さん。








 二葉さんは、1915(大正4年)2月2日、広島で生まれた。
 絵画や書に優れ、画家を夢見たこともあったが、広島高女5年の時にその歌唱力と美声を認めた音楽教師の勧めもあって、東京音楽学校(現東京芸大)を目指した。ボール紙に書いた鍵盤でピアノを練習したなど、わずか100日の受験勉強で合格したというエピソードもある。

 在学中東京音楽学校生徒名で「四つ葉のクローバー」をレコーディングしている。
 上野音校師範科卒業後、1年間、三次高女での義務教職を終えてコロムビア専属歌手となった。母の里で生誕の地、広島市の二葉と安芸の国から「二葉あき子」を芸名にした。

 デビュー曲は昭和11年の「愛の揺籃」。
 初ヒットは今も仙台七夕の定番曲として親しまれている「ミス仙台」だ。
 低音から高音まで安定した歌唱力とビロードの歌声と言われた柔らかい美声により戦前戦中戦後にかけ最も多くのヒット曲を輩出し、昭和歌謡界前期を代表する歌手とされている。
 NHK紅白歌合戦も、第1回から10回まで連続出場し、第6回には「バラのルムバ」でトリを務めている。この頃、のど自慢で女性上級者は二葉作品が試金石であった。

 昭和18年に結婚して1児をもうけたが、私生活は順調とは言えなかった。
 45(昭和20)年8月6日、広島市で乗車していた列車がトンネル内に入った時に原爆投下に遭った体験を持つ。

 昭和27年頃から喉を傷め、美しいビロードの声は失われ、失意からの自殺未遂もあったという。
 これによって、ソプラノからアルトへの転換、美声で聞かせる歌手から脱皮して、歌心で聞かせる歌手として活躍した。
 難聴によって歌手活動に障りが出た2003年、ファンとのお別れの会が、公の場での歌唱は最後だった。

 終生童女のようなマイペースで歌手二葉あき子を生きたが、さまざまな人生の闇を体験、修羅の道を歩んだ孤独な女性だったともいえる。
 1982(昭和57)年に紫綬褒章、90(平成2)年には勲四等瑞宝章を受賞している。



 代表曲には、「古き花園」「白蘭の歌」(共唱者・伊東久男) 「お島千太郎旅唄」(同・伊藤)「なつかしの歌声」(同・藤山一郎)「春よいずこ」(同・藤山)「新妻鏡」(同・霧島昇)「めんこい子馬」(同・高橋祐子)「高原の月」(同・霧島)「黒いパイプ」(同・近江俊郎)「別れても」「夜のプラットホーム」「バラのルムバ」「フランチェスカの鐘」「恋の曼珠沙華」「さよならルムバ」「恋のアマリリス」「村の一本橋」「水色のワルツ」「バラと蜜蜂」「巴里の夜」「オリーブの歌」「パダン・パダン」などがある。

 99(平成11)年6月19日、84歳の時にだした「星降るデッキで(三島敏夫)」「パダン・パダン」がラストCDになった。


 同じ日本コロムビアの歌手、舟木一夫さんの話
 「報せを貰ったのが公演終了した時でした。本当に驚きました。
 僕は以前から“おふくろ様”って呼ばせて貰って親しくさせていただいてました。 “おふくろ様”の晩年のコンサートも楽しかったです」

 「芯の強い人で、これだけキャリアのある方でしたから何か達観した境地みたいなものがあるのか、自然体でステージで突然『私、疲れたからハイヒール脱いじゃぉ』って可愛らしく言って楽しく身近なコンサートでした」

 「僕のコンサート終わりに楽屋に訪ねて来られて『私、もう歌えなくなってしまったから故郷に帰ることにした』って言われたことがあって、それが実に潔く、爽やかに何事も無い様なふつうの出来事のようでした。内心は物凄く悩まれたのでしょうが、それを人には見せない、芸人の引き際のすごさを大先輩から教わった思いがあります。“おふくろ様”長い間本当に有り難うございました。ゆっくり、休んでください。合掌」

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