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新田晃也 (キングレコード) 孤高の演歌歌手 人の心を響かせたい 自らの人生を歌ったような新曲「寒がり」 [インタビュー]

新田晃也2.jpg◆先頃、新田晃也が大阪市内で初めてのコンサートを開いた。デビューして47年というが、関西ではまったく馴染みがなかった歌手だ。もともとはギターの弾き語りをするシンガーソングライターで、関東を中心にライブやコンサートを行っていた。一昨年、歌手45周年を記念してキングレコードから作詞家石原信一作品の「振り向けばおまえ」を出して話題に。そして再び石原と組んで「寒がり」をリリース。聴く人の心を響かせる歌を届けたいと歌い続ける。


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 新田は自らの人生を歌う。
 「振り向けばおまえ」(2010年)、それに続く「寒がり」(12年)、いずれも5年前に出会った作詞家石原信一が書いている。新田の人生は波乱万丈という一言では片付けられないものがある。しかし石原は「ずっとオレを見てくれていたかのように」それを、わずか数行の短い詞に収めた。
「オレを代弁してくれているかのような詞にいっぺんに惚れ込んでしまった。自分で書いたものよりもずっとストレートに気持ちが伝わってくる。新曲の『寒がり』は詞を見た時、思わず泣けてしまったほどだ」

 「越冬つばめ」などを手がけた石原との出会いは、歌手新田彰也を大きく変えた。
「1人で歌を作って、歌うといったスタイルを続けてきたが、それだとどうしても見えない部分や書けないところがあって、作品の内容にも限界があった」

16歳で集団就職


 新田は福島県伊達市出身の68歳。家は農家であった。子ども大事な働き手として、学校から帰ると農作業を手伝わされた。しかし「米を作っているのに、どういう訳かわが家には米がなく、隣りに米を借りに行くのがオレの役割だった」という。

 13人姉兄弟の10番目で、中学を卒業後、少しでも親に楽をさせたくて、その喜ぶ顔が見たさで上京して就職した。食べるものには不自由しないだろう、と勤めた先はパン屋だった。住み込みで給料は3000円。しかし1年で辞めてしまう。

 それからは左官屋、魚屋、新聞配達など、いろんな仕事を経験した。コメディアンにでもと思って芸能プロにも応募した。新聞配達は販売店に住み込みだったが「たこ部屋のようだった」のが我慢できず、逃げ出したことがある。すぐに見つかって連れ戻されたが、結局、ここも辞めてしまった。

歌手への道


新田晃也.jpg 今度は新聞配達時代の仲間から紹介されたジャズ喫茶ラ・セーヌでボーイを始めた。そこは歌手が頻繁に出演しており、それが弾き語りで歌の世界へ入っていくきっかけとなる。
 その頃、創業して間もない月賦百貨店と言われた丸井で、ギターを月賦で買い、暇を見つけては練習をし。20歳のころから曲も書き始めた。当時4万円もした赤井電機のオープンリール式テープレコーダーを買って、歌を吹き込んで練習していたのも、この頃だった。

 音楽事務所に属したこともあったが、馴染めずに辞めている。その後は、CDを自作してライブやスナックで歌って売って歩いた。居酒屋で歌っても売れたという時代だっただけに「最初に作ったCDは1万枚を売った」ほどだ。

 そんなバブルは数年して去っていった。



 もっと聴く人の心を響かせるような歌を歌いたいと、歌と向き合う姿勢を考え直したのは、そんな時だった。2000年代に入って古関裕而生誕100年記念として「イヨマンテの夜 / 君の名は」などを出しているが、石原と出会ってからは、新田の音楽人生は、胸のつかえが取れたかのように一転する。いつも2人は青年のように熱く歌への想いを語りあっているという。
 そうした中から生まれてきた新曲「寒がり」は、自らの後悔だらけの人生や大切な人への想いなどを哀愁感を込めて歌うい、同年代の男女の心を震わせる。


[新田晃也公式ウェブサイト]
http://www.kouya-music.com/
[新田晃也 キングレコード]
http://www.kingrecords.co.jp/cs/artist/artist.aspx?artist=39613





新田晃也(キングレコード) 初めての大阪でのコンサート 新曲「寒がり」など披露 心に響く歌を伝える

◆新田晃也が、2012年6月8日、大阪市北区のエルセラーンホールで、関西で初めてのコンサート「新田晃也in大阪 寒がりキャンペーンコンサート」を開いた。入場料無料で新田は「たとえ1人だけでも心に響く歌を伝えたかった」と話すなど、関西初のコンサートへの想いの強さをアピールしていた。


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 コンサートは5月9日発売の新曲「寒がり」と前作「振り向けばおまえ」など、オリジナル曲とカバー曲の計14曲で構成。
 地元の関東では30人規模のライブを繰り返し、それの集大成としてコンサートを年間2回ほどを恒例としているというが、関西ではまったくの初見参。新田自身も不安を抱いて臨んだ。

 会場には大阪はもとより東京などから、新田の古くからのファンも駆けつけて盛り上げに一役買っていた。
 「王将」「こいさんのラブコール」など大阪ものの楽曲も4曲盛り込むなど、大阪の人たちへのサービスぶりも見せていた。
 「初めての大阪のコンサートだったが、物事をはっきりと表現すあたりは、オレにフィットする街だと感じた」と、大阪の街へラブコールも。

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 歌手人生の幕引きまであと2年と自らいう新田は「自分の持ち時間が段々と短くなって行く中で、作詞家の石原信一氏と出会うことによって、最後になると思って出したのが前作だった」と話す。
 新曲「寒がり」も石原と組んだ。作曲は新田本人が担当した。
 皮肉にも60歳を過ぎてから一番声が出るようになった、という。


 「浅草のもんじゃ焼き屋で初めて『寒がり』の詞を見たとき、もんじゃがこげるのも忘れて泣いていました。これはオレに向けた詞だったんです。他人に書いてもらったものが、これほどに心に入り込んで、心底歌いたいと思えるものはあるだろうか、と思えたんです。本当の人生はこれからかもしれません」
 新田はこの楽曲で、メジャー歌手としての自信をさらに強めた。

 コンサートはキャンペーンとあえて銘打って、入場料は無料にした。知名度のない土地での開催でもあったからだ。
 新田はステージの上で再三「会場の大小、観客の多少に関わらず、聴いていただける人がたとえ1人でも心に響く歌を伝えたい。ヒットはたった1人の心の響きから生まれるものですから」と、語りかけていた。



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